役立つためには人が好きになること

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(コリントの信徒への手紙一、 32章1節)

【解 釈】 「異言」というのは、神秘的な霊の言葉とでも言うべき語り口を意味した。言葉の意味がだれにでも分かるわけではないので、パウロは異言を語ることをそれほど推奨していないが(コリント一、14・1以下)、異言は当時の教会のなかで信仰の深い者の特別な賜物として考えられていた。「天使たちの異言」も同じ理解のもとにある。

パウロは、それはとても素晴らしい賜物かもしれないが、語る者に愛がなければ、うるさい楽器のようなものにすぎないと言っているのである。人はいろいろな賜物をもっている。とても他人がまねのできないような素晴らしい賜物に恵まれた人もいる。しかし、賜物は他人のために用いられてはじめて賜物となる。もっているだけでは賜物として活かされない。愛をもって使うとき、賜物は賜物として役立つ。もしそうでないなら、宝の持ち腐れである。

同時に、それほどの賜物とは思われない才能の持ち主もいる。しかし愛をもって、その才能が用いられるなら、音色豊かな「どら」となり、「シンバル」となる。

【こころ】 カトリックのシスターの方とときどき話をする機会があります。修道会によって一般人と変わらない服装の人もいますが、多くの方は一見してシスターということが分かります。あるとき、ひとりのシスターの方に、「そのような服装をして電車に乗っておいでになるときなど、どんなお気持ちですか」とぶしつけに聞いたことがあります。その方は、「それは、私たちは一般の人とちがうということを自分自身に言い聞かせるためですし、他人さまにもそれを知っていただくためです。でも、それだけではだめなんです。人が好きでないといけないんです」

この返事を聞いて、自分と他人のちがいの上に立って、そのちがいが他人にどのような印象を与えるかも知った上で、なおなにが必要であるかまで、よくわきまえた人だなと思いました。すべてのシスターが同じような考えとは思いませんが、特別な才能をもった人や、人とちがった特別なところで生きている人は、ややもすればその特別なことだけで満足してしまいがちです。その特別なことがなんであれ、それがどうすれば役に立つかを考えねばなりません。パウロはそのために愛がなければと言っているのです。シスターの言葉を借りると「人が好きになる」ということです。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より