すべてのものに同じ価値がある

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。(コリントの信徒への手紙一、 12章17節)

【解 釈】 人間の体にはいろいろな器官がある。ある器官は目立つかもしれないが、ある器官は目立たないところにある。しかし人間の体は、日立つ器官だけで維持されているのではない。どの器官をとっても必要でないものはない。もし目立つ器官だけに価値が置かれ、日立たない器官が切除されることがあるとすると、いったい人間はどのようになるであろう。全体としての健全な機能を失ってしまうのは目に見えている。

それと同じで、人間の生活には目立つ部分もあれば、目立たない部分もある。目立つ部分はしばしば尊重され、華やかに見えるので、高い評価を受ける。しかし人の世界は、目立つ部分だけで動いているのではない。目立たず、弱いと見える部分もまた、なくてならぬ働きを負っているのである。それによって全体が助けられている。だから目立たず、弱く見える部分にも十分価値を置けと言っているのである。

【こころ】 サンフランシスコの対岸の町バークレーは、カリフォルニア州立大学バークレー校を中心に多くの大学、神学校があり、高度に発達した学問都市であり、ヒッピ―の発祥地としても知られていますが、同時に、世界的にも有名な障害者自立センターがあって障害者の多いところでもあります。それだけに、障害者に対する配慮は町の至るところに見ることができます。

ある日、町の郵便局に出かけて、窓口で用事をすませていると、勢いよく電動車椅子に乗った青年が入ってきました。アメリカの電動車椅子は動きが速いので、私は思わず身を避けねばならないほどでしたが、見ると頭に皮のベルトを巻きつけ、その一端から金属の棒が出ていて、それがハンドル操作の役をしているのでした。ハンドルの上にはアルファベットを書いた文字盤が取りつけられていて、彼は棒を引き抜くやその文字盤をすばやく指します。その動作の速さは、驚くほどです。それだけのことなら、べつに驚くことはないのですが、私がびっくりしたのは身障者の青年と職員の態度です。どちらも堂々としているのです。青年もさっさと文字盤を指さします。職員もいかにも助けてやっているといった態度がないのです。それはだめだというときには厳しく分かるような態度を取ります。青年もけっして負けてはいません。強く職員に迫り、棒で文字盤を指し、自分の要求を通そうとします。しばらくの押し問答の末、決着がついたのでしょう。また青年は勢いよく電動車椅子で出ていきました。

いかにも親切とか、いかにも助けてくれといった様子は微塵も感じられませんでした。上っ面だけで社会的機能における「弱さ」を見せつけることなく、すべてに同じ価値があり、すべてが同じように機能している社会の一端をかいま見た思いでした。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より