ありのままの自分を見つめる

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ローマの信徒への手紙7章19節)

【解 釈】
パウロは自分の内面をよく知っている人であった。自分を正直に見るとき、自分のなかに善をしようとする意志があるにもかかわらず悪を行ってしまうことに気がついたのである。しかも、悪を行うことを望んでいるわけではない。望まない悪を行ってしまう自分とはいったい何者かと自らを問いただしている。彼は、望まない悪を行ってしまうのは自分のなかに住みついた罪がそうさせているのだと言う。パウロが信仰をもった人間としてこれを言うところに大きな意味がある。信仰をもてば、そのようなことは起こらないとは言わないのである。信仰をもった人間であっても、なお罪をもつのだと、正直に自分を省みて言っているのである。信仰はけっして魔法のように人を桃源郷に導き、夢のような生活を約束するものではない。むしろ人がありのままの姿に正直になり、たとえ見るに耐えない
自分の姿であっても、まつすぐに自分を見ることができる勇気を与える。人は自分を赤裸々に見る勇気があって、はじめてあるべき真実の道を歩くことができる。

【こころ】 ルターは、「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、そして大胆に悔い改め、大胆に祈れ」と言います。教会は同じような顔をした善男善女の集まりと思っている人が多いようですが、現実の教会はそうではありません。クリスチャンといえども、面白くない人間関係を抱えた職場を一日も早くやめたいと思いながら生活のためにいやいやな
がらの毎日を送っている人もあり、こんな夫とは一日も早く離婚したいと思っている奥さんもいるかもしれません。もうこれ以上子どもに面倒をかけたくないと小さくなって同居生活を送っている高齢者もいます。だれも声をかけてくれない寂しい人がいるかもしれません。そればかりではありません。頑固な人、気の強い人、自分勝手に信仰深い
と思っている人、親切であると自負しているお節介な人などなど、さまざな人間がクリスチャンとして教会に集まります。

クリスチャンとはそういう人間であってはいけないのだと自分でも思い込み、他人からもそう思われがちです。それに応えようとつい表向きの顔になり、内に苦悩を秘めながら、感謝、喜びなどの美しい言葉を口に出し、いかにも信仰深い笑顔を漂わせることになります。

ルターはそのような見せかけの信仰生活はクリスチャンにふさわしくないと警鐘を鳴らしているのです。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ」とは、むしろ感謝に代わって嘆きを、喜びに代わって苦しみを告白する者こそ真のクリスチャンだと言っているのです。大胆にならねば、苦しみや嘆きは告白できません。罪人であることに大胆であれということです。その罪の告白があればこそ、大胆に悔い改め、大胆に祈ることができるのです。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より