「おかげさま」の気持ちで生きる

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイによる福音書18章22節)

【解 釈】
赦すということは至難のわざである。場合によっては、赦さずに憎むほうが生きるためのエネルギーとなっていることもある。しかし、憎しみはけっして笑顔をもって生きることを赦さない。

この教えは、自分は莫大な負債を赦されながら、人にはわずかの貸しをさえ勘弁しない者のたとえと関連して語られている。つまり、赦すということの背後には、赦されているという事実があることに気づきなさいとイエスは言われているのである。つまり、「赦しなさい」と言われるイエス自身が赦すお方であって、その方によって、すでに赦しが行われている。

「七の七十倍までも赦しなさい」とは、無限に赦せという意味であるが、赦されるのも無限である。イエスの赦しは、自分にとっても相手にとっても無限だからである。相手に憎しみをもつ自分も、イエスに無限に赦されている存在である。 それに気づかないと、相手を赦すことができない。

あらためて自分自身を見つめてみると、どれほど多く赦されていることであろう。仕事のことであれ、人間関係のことであれ、家族のなかのことにおいてであれ、生活のどの局面にも赦されないと成り立たないことが多い。「おかげさまで」という言葉がそのまま当てはまる生活がいろいろ見えてくる。その気持ちを深く掘り下げると、神が私を赦してくださったので、今日の私がこうしていることができるという感謝の気持ちに行き着く。

実はこのとき、相手もまた赦しのなかにあるのだということを知らねばならない。同じ赦しのなかにある相手を見るとき、その赦しを分かち合うのに、どれほど分かち合っても減ることはない。無限の赦しの源泉があるからである。

【こころ】
アサジョーリという人が提唱したサイコシンセシスという心理療法があります。宗教性の高い心理療法なので一般にはそれほど用いられてはいないようですが、宗教に関心のある人には興味のある心理療法です。

この心理療法では「無条件の赦し」を目的とした治療を行います。たいていの人は、日常のなかに赦しがたい相手を抱えているものです。しゅうとめであったり、夫であったり、妻であったり、職場の上司、同僚、場合によっては教師、牧師も赦し得ない相手かもしれません。これらの相手を赦して生活をすることができれば、どんなにすっきりすることかと思います。 サイコシンセシスは、「もしそうなら、相手を赦そう」というのです。ただし、心理療法の限界といえるものがあって、「赦します」といっても、相手をまるごとすっかり赦すことはできません。赦すとよいと思う相手の言葉や行為をひとつひとつ、場所や時間をイメージしながら具体的に思い起こし、その行為、言葉のひとつひとつを赦す心理作業をします。それも、私という人間の側から直接赦すことはできません。赦しがたい相手があたかも目の前にいるかのようにイメージし、その相手に対して私を超えた高い次元での無条件の赦しの愛を送るのです。サイコシンセシスでは高位のセルフと呼んでいますが、それを通して無条件の愛の流れを相手に送ります。私が考えて赦すわけでないのです。高い次元がもつ無条件の愛を相手に送るというイメージを作って赦しを体験します。自分を超えた高い次元をイメージすることで、現実の自分に囚われることなく、 自由な世界を体験することになります。

このような心理作業は、赦しとはなにかを考える知的作業とちがって、セラピストが 進める体験的な心理作業によって進められ、心理的受容として体がジンと感じるような体感的な納得を生み出します。ただし、心理療法は人間の精神内界での営みである以上、一度で赦しが完成することはありません。繰り返しこうした心理作業を経験することで、人は次第に赦しを自分のものにしていきます。アサジョーリは特に宗教を信じる人だけを対象にこの心理療法を提唱しているのではないので、高位のセルフと言っていますが、聖書の立場に立つなら、人間の愛を超えた神の愛として理解することも可能です。

赦しは、自分の思いを超えたものの助けなしでは起こり得ないというひとつの例と言 えます。