自分の価値は自分で決められない。

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。(マタイによる福音書9章2節)

【解 釈】
キリスト教では、人を罪人扱いするのでいやだ、という人がいる。これは「罪人」を「ざいにん」と読んで、人倫に外れた人間と見るからである。「罪」とは、 新約聖書の原語ギリシア語では「的外れ」という意味をもつ。矢で的を狙ったつもりが、外れるということである。したがって人間が罪人であるというのは、自分では正しく事を処しているようであるが、どこかひとつ足りなかったり、まちがったり、善と信じて行ったことが悪と化したりすることだってあるということである。要するに、人間の世界で起こることには絶対はないということを、「罪」 という言葉で表現しているのである。

なぜそうなのか。創世記3章には、善悪の知識の木からは取って食べてはいけないと言われていたのに、それを食べると神のように善悪を知るようになると蛇にそそのかされて、エバはつい食べてしまうという話がある。人は神からその存在を造り出されたのだが、造られたことをついつい忘れて、自分が神に成り代わって、世界の主人公のようになろうとするという意味である。ちょうど、人間が作ったロボットが、人間に成り代わろうとするようなものである。それこそ見当ちがいもはなはだしいのであって、そこからボタンのかけちがいのように的外れのことが起こる。だから人間のすることなすこと、絶対とか完全とかいうことがない。それが罪である。人間にとって必要なことは、もう一度造られた最初に戻ることである。そうでないと、いつまでたっても相変わらず的外れのままである。

罪の赦しとは、自分ではなくて、神が世界の主人公である関係に戻ることである。そのとき人は、生きている世界が自分のものではなくて、実は神の世界のなかに自分が生かされていることを知る。

【こころ】
マタイによる福音書9章に、中風にかかった人を人々が連れてきた話が書いてあります。その中風の人に向かってイエスが、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言います。おかしな話です。病気を患っているのですから、「お前さんの病気を治してあげよう」と言うのが当たり前で、連れてきた人たちだって、イエスに治していただくことを期待していたにちがいないのです。でもイエスは、そうは言いません。「あなたの罪は赦される」と言うのです。

私たちは病気になると、なんとかして治りたいと思うでしょう。病気が治るか、治らないか、そのことにだけ気持ちが集中している、それが病の最中にあるときの自然の思いではありませんか。あやしげな宗教にとっては、そこが付け目です。信心すればきっと治る、そんな言葉を聞くと思わず飛びつきたくなるのはこんな気持ちのときです。 イエスはこの中風の人のなかに同じような思いを見たのです。

しかしイエスは、その病人の願いには直接的に答えません。「あなたの罪は赦される」と言うのです。「あなたの罪は赦される」と言うのは、別の言い方をすると「あなたは今、自分の病気が治るか治らないかだけを考えているが、あなたが病気であっても、健康であっても、人間としてのあなたの存在には変わりはない。しかし、その存在の善し悪しは、自分で決めるものではない。もし自分の存在の善し悪しを自分だけで決定しようとすると、治ればよし、治らなければ悪いと思ってしまうだろう。あなたの存在は、 病気であろうと健康であろうと、神から与えられたものなのだ」ということなのです。 自分の存在の意味や価値を決定するのは自分ではない、自分の存在を与えた方だと納得できたとき、治る、治らないを超えたところで生きる生き方が生まれるにちがいありません。

そのとき、的外れでない、ほんものの生き方を発見するのではないでしょうか。