安心して眠れることの意味

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。 (詩編127編2節)

 

【解釈】
この詩編はよく教会の結婚式で読まれる。それは、生活の現実に厳しさがつきまとうことはあっても、そのなかには恵みが包含されていることを知ってほしいからである。

 人は朝から夜まで汗して働かねばならない。パンを得なければならないからである。ときとして生活に焦りや空しさが漂うこともあろう。働きには苦悩はつきものである。

 しかし神は愛する者に眠りを与えられる。だから、たとえ生活に苦しさがつきまとっていても、心配することはないと作者は慰める。たとえ苦労はあっても、心から信頼することのできる存在をもっていれば安心して眠ることができると、この詩編は教える。信頼できる存在をもつかどうかが、これを決定する。そして、安心して眠ることができるように、この労苦する「私」を愛していてくださるお方がおられるのは確かなことなのである。そのことを知ることで、さらに安んじて眠り得ることを詩編作者は約束しているのである。

 

【こころ】
電車やバスのなかで赤ん坊が母親の胸に抱かれてすやすや眠っている姿を見るのは、心なごむ光景です。大人たちも同じように安心して眠れる日々があれば、どれほど幸せかと思います。しかし母親の胸もよくよく考えれば、けっして絶対の安心を保証していないことが分かります。母親がうっかり転ぶかもしれないし、胸に抱いた子をなにかの拍子に落っことすかもしれないのです。まして、なにが起こるか分からない世のなかです。事態の急変はいつ何時起こるか分かりません。にもかかわらず、赤ん坊はすやすやと眠っています。自分の全存在を、赤ん坊にとって全世界の代表者である母親にすっかり明け渡して安心しきった姿がそこにあります。

 全存在を明け渡すとは、自分のすべてを委ねることにほかなりません。委ねる行為は決断です。ぐずぐずと邊巡一することを許しません。心配事があってもエイヤッと任せる、委ねるとはそういうことでしょう。

 かつて「がん」にかかられ、余命いくばくもないころに洗礼を受ける決心をされた婦人がおいででした。病床で洗礼を受ける日、「私は教会に行ったこともなければ、聖書をよく読んだこともありません。でも、すべてお任せします」とその方は最期の息のなかで言われたのです。家族のこと、生活のこと、後ろ髪を引かれる思いであったことでしょう。その思いを断ち切るように「お任せします」と告白、そして受洗されたのでした。自分の全存在を委ねることができた者のみがもつ安らぎを見た瞬間でした。「愛する者に眠りをお与えになる」主のわざを見た思いでした。