時間の量ではなく質を問う

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。  詩編84編11節

【解釈】
イエスの時代には年に一回、過越祭(ユダヤ教三大祭りのひとつ。春分の日直 後の満月にあたるユダヤ暦1月14日夜、犠牲の小羊を食べることに始まり、1週間続く)のときに神殿にのぼることが義務づけられていた。イエスが処刑されたのもちょうどこの時期にあたり、大勢の巡礼者でエルサレムはごったがえしていたことであろう。

その時代よりはるかさかのぼる昔であったが、この詩編の作者も巡礼者のひとりとして、はるばる旅を続け、ようやく神殿の入り口に達し、安堵の思いにひたり、壮麗な神殿の美しさに目を奪われていたのである。けれどもこの巡礼者は、目に見えるものにだけ心を奪われているのではない。彼は自らをして巡礼の旅ヘと送り出した信仰の世界に思いを巡らせ、感動にひたっているのである。巡礼の旅はけっして平穏無事ではなかった。今ようやく巡礼の長い旅も終わり、平和なときが流れている。それはなにものにも代えがたい貴重なときである。いまだかつてこのような時間を経験したことはなかった。いつまでもこの神殿にいて、この時間を満喫していたいと願う。信仰が与える時間の質を味わう境地にひたっているのである。

 

【こころ】
私たちが時間を問題にするときは、どれだけの時間より、どのような時間であるかに高い関心を寄せます。量よりも質の時間を私たちは求めているといえるでしょう。

時間の質を考える上でよい例として、死を迎える人々に対する援助であるターミナルケアを取り上げることができます。これまでの医療では、やがて死を迎えることが分かっていても、できるだけの手は尽くすという方向で延命治療が施されてきました。けれども今日、それほどまでして延命治療をする必要があるのかという声が医学界で叫ばれるようになってきました。

ターミナルケアは、たとえ残された時間は短くとも、できるだけ充実した時間を過ごすことができるように援助することを目的としています。時間の量ではなく、質を大事にするケアと言えます。たとえ死を目前にしたひとときであっても、人生のもっとも充実したときが流れるのはどれほど至福であることか、多くの闘病記はそのために書かれていると言っても過言ではないでしょう。

詩編の作者が「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる」と言うのは、そのような充実した時間を生きているからです。このような充実した時間はどのようにして生まれるのでしょう。ターミナルケアでは末期患者の医学的ケアにとどまらず、心理、哲学、宗教の世界に至るまで総動員されます。人が人間として生きるすべてが総合されて豊かな充実した時間が生まれるのです。彼の全世界が、死の危機にある彼を取り囲んでケアをします。このとき時間はもっとも充実するのです。

この詩編の作者は巡礼の途次、単調な旅に退屈したことがあったかもしれません。あるときは危険にさらされたこともあるでしょう。もはや先を急ぐ気持ちを失い、引き返そうと思ったときがあったかもしれません。しかし、今ようやくにしてたどり着いたエルサレムの神殿に立ち、彼の全存在を包み込む世界が広がっています。すべてが彼を生かしめているのです。その瞬間は、千日を一日に圧縮したかのようです。本来の宗教とは、そのような時間を人に与えるということを、この詩人は自分の信仰体験を通して伝えているのです。