人の決め事のルールを超える祝福
創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 民数記6章24節
【解釈】
モーセの兄アロンの祝福と言われる言葉。その全文を見ると、「主があなたを祝 福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」 とある。キリスト教会の礼拝では、通常の礼拝のさい、祝福の言葉として用いられる。祝福とはもともと、そこだけ切り分けて聖別するという意味がある。そこだけは他の部分とちがうということである。聖書には、いろいろな祝福の言葉があるが、通常の礼拝では「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように」(コリントの信徒への手紙二、13・13)と いう祝福の言葉が使われることが多い。そのほかにも、ときに応じて、いろいろな祝福の言葉が聖書から採択され、その場の状況にふさわしく用いられる。
【こころ】
祝福をめぐっては、まことに理解しがたい物語が旧約聖書にあります。創世記27章には弟ヤコブと兄エサウの相続争いのことが書かれています。母リベカは実の子である弟ヤコブにどうしても家督を相続させたいので一計を案じ、兄が毛深いのを利用して、ヤコブに子山羊の毛皮を着せて兄に見せかけます。眼が悪くなった父イサクはだまされて、家督相続の祝福をヤコブに授けるのです。これを知った兄エサウは地団駄ふんで悔しがり、イサクのところに飛んでいって、なんということをと父をなじりますが、いったん祝福をした以上変更はできないと言うのです。
年月が経ち、このヤコブは、数奇の運命をたどってエジプトの宰相となった息子ヨセフと劇的な再会を果たし、飢饉を逃れてエジプトに移住しますが、このヨセフの子どもを祝福する時に兄と弟を取り違えて祝福をするということが起こります(創世記48章)。 ヨセフは不満を述べますが、ヤコブはそれが神のみこころだと言うのです。
だまされたり、まちがったりした結果の祝福ですから、いさぎよく訂正をしてもよさそうなものです。しかし祝福が一旦なされた以上は、人間の決め事のルールを越えているということをこれらの物語は教えているのです。人間のほうから見れば、とんでもないように思われても、神の目から見れば、それでよしとされているということです。物事の決着のあり方には、人間がよしとすることで万事決着がつくというのでない、人の思いを超えたもうひとつの決着の仕方がある、しかもそれが祝福であるというところに、 意に反したり、思うようにならなかったりするところを生きるときの答えがあるように思われます。