愛は人生の薬
第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき
勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一、 4章18節)
【解 釈】
人はだれでも自分の存在を肯定的に認められたいと願っている。褒められたり、賞賛されたりすると嬉しくなり、生きるにも張り合いが出る。自分の存在が肯定的に認められたからである。それはとりもなおさず愛されるということなのである。だから人は愛を求めて生きる。愛されたことのない人は、心のなかに隙間ができたように空しさを抱えて生きる。情緒的に問題をもつ人の多くは、愛された経験のない人が多い。存在が肯定されないので、不安になっているのである。
この聖書の言葉は、ヨハネの手紙一から取られているが、神は愛そのものであって、すべてのものはその愛のもとにあると言う。だからお互いに愛し合おうと言う。愛する仕方は、ときと場所また人によってもちがう形をとる。宗教改革者ルターは「愛はときにはきわめて平凡であり、ときにはきわめて異常である」と言う。しかし、どのような愛し方であっても、他者の存在を肯定する言葉や行動となる。愛はけっして不安のなかに人を陥れることはない。かえって、何事も恐れない生き方を教える。もし人に向かって「生きていていいよ」というメッセージを送りたければ、その人を愛する以外にない。愛に勝る人生の薬はないのである。
【こころ】
街角で知り合いと出会ったときなど、「こんにちは」と微笑んで声をかけることがあるでしょう。相手もなごやかにうなずき返します。気持ちのよい一瞬です。相手の存在を肯定的に認め合った瞬間です。相手が特になにかしてくれたわけでもありません。特別に美しい言葉を投げかけてくれたのでもないのです。ただ自分がそこにいるそれだけを認めて微笑みを投げかけてくれたのです。存在が肯定的に認められる、それだけで気持ちの良い関係が生み出されているのです。その小さな微笑みの交換から、この社会に生きていてよいとする確かさが始まります。
人はだれでも社会のなかに生まれ落ちて、そのなかで生きなければなりません。たったひとりで孤独な世界に生まれてくることはあり得ないのです。たとえうるさい世のなかから逃げ出したいと願ったとしても、社会との関係はどこであれもたねばなりません。生きるということは、かならずこの社会のなかで存在するということを意味するのです。このとき、存在のありようはとても大切です。社会とうまく適応しながら生きるのか、それとも落ち着かないまま不安のうちに生きるのか、それはこの社会のなかでの存在の認められ方ひとつで決まります。もし存在が肯定されるなら、人は生きることに意欲を燃やして、この社会での生活を満喫するでしょう。存在が否定されるなら、空しい思いで毎日を過ごさねばなりません。
「愛すること」、それは相手の存在を肯定的に認めることです。「愛されること」、それは私の存在が肯定的に認められることです。愛は、この社会に生きるためになくてならぬ薬のようなものです。その愛を、ほんの一瞬に交わす微笑みが生み出すのです。