障害を乗り越えて味わう醍醐味


第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になってそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブライ人への手紙12章11節)

【解 釈】
この手紙が書かれた背景には、一世紀後半の厳しい教会情勢があった。迫害は相変わらず続いており、人々の信仰にもひびが入りかけていた。外からの迫害に対しては教会を守り、内にあっては信仰を堅くすることが特に求められた。信仰者は今、試練のなかにあり、それに立ち向かう鍛錬が求められているのだという考えをこの手紙の至るところに見るが、この言葉は当時の情勢をよく表している。

何事によらず人間の世界には、仕事であれ、学問であれ、気楽にマイペースでというわけにはいかず、厳しく耐えなければならないことがある。その道中にあるときは、懸命に努力をしてもなかなか目標に到達しない自分の姿が恨めしくさえ思える。訓練というものは、楽をしようとする思いに逆らうことを求める。休みたい、眠りたい、たらふく食べたいとの思いに逆らうのは苦痛である。しかし、そこを越えなければ結果を手にすることはできない。

ところが聖書は、訓練が与える苦痛には目をとめていない。むしろ「喜ばしいものでない」と言っているのである。同じ状態であっても、この見方は微妙にちがう。苦痛と思えば、逃げ出したくなる。しかし、喜ばしくないと思うことは、それが当たり前と思うことである。当たり前と思うか、苦痛と思うかで、訓練を途中で放棄するか、しないかが決まる。

【こころ】
性格を変えたいが、どうしたらよいかという質問を聞くことがあります。性格というのは、その人独自の物事や対人関係での考え方、感情、行動がひとまとめになった反応のあり方と言ってよいでしょう。もって生まれた生得的な要因もありますし、成長するにしたがい学習した結果もあって、その人らしい性格表現となっています。ときおり、対人関係などでトラブルが起こると、性格上の問題ではないかと悩むことがあります。

なんとか性格を改善しようとしても、長い間に培った性格が、それほど簡単に変わるわけはありません。しかし、性格表現を変えようとすれば、できないことはないのです。ただし条件がひとつ。考え方を変えただけでは性格は変わりません。厳しすぎる人が、これでは人に嫌われそうだから明日から優しくなろうと頭のなかで考えても、優しくなることはできないのです。優しすぎる人が、このままでは他人を甘やかしてしまうから、もっと厳しくならなければといくら考えても、厳しい自分を作ることはできません。優しくなろうと思えば、優しい行動を取る訓練の必要があります。厳しくなろうと思えば、厳しさをもった行動を自分に課す訓練をしなければなりません。考え方より行動が先なのです。優しくあるための行動を取るには、生まれたばかりの赤ん坊のお守りをするとか、厳しくなりたい人は、少しの汚れもしみも見逃さないように部屋の掃除をするとか、いつもじめじめ暗い感じで生きている人は、思い切って楽しいことを実行するとか、行動から入らなければ性格表現は変わらないのです。

ある行動を取るということは、自分に課す訓練です。修行といってもよいでしょう。修行は嬉しくないことです。その意味では、性格を変えようと思えば、それなりの嬉しくないことに耐える訓練を自分に課す必要があるのです。それに耐えるか耐えないかは、その人次第ということになります。耐えた結果は、その人だけが味わうことのできる醍醐味であることは言うまでもありません。訓練とはそういうものです。