窮地に立ち向かう勇気をもつ


第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

 四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず (コリントの信徒への手紙二、4章8節)

【解 釈】
人生には、行き場がなくなったり、打つ手がなくなったり、方向を見失ったりすることがある。自分の責任でそうなることもあるかもしれないが、他人のせいで思わぬ悲運に遭遇することもある。後にも戻れず、先にも進めず、にっちもさっちも身動きのできない状態だってある。なにもしないでいたずらにわが身をさいなむか、他人を責め、世間を呪い、暗たんたる思いに沈むこともあろう。睡眠薬でも飲んで無理に眠るか、酒にまぎらわせるしかない。しかし、それが本来の生き方ではないことは痛いほど分かっている。ほかに手はないものか。この手紙を書いたパウロも、また同じような明け暮れを過ごしたにちがいない。

しかし彼には信仰があった。信仰は、行く手を失ったそこから先を生きる術を教える。もう打つ手はないとさえ思われても、なお先にひとつ打つ手があると確信する。お先真っ暗であっても、なお先を望むことを教える。信仰とはそういうものである。それこそが本来の生き方であり、そうすることによって最後に人生の勝利を勝ち取ることができると知っているからである。

【こころ】
ある小さな村に、ひとりの脱走兵が逃げ込んできます。村人は親切に彼をかくまいます。追いかけてきた仲間の兵士は、さんざん探し回りますが、ついに見つけることができず、脱走兵を渡さないと村全体を焼き払うと脅します。その窮地からなんとしてでも脱したいと思った村の司祭は、悩みに悩み、懸命に祈って、聖書に答えを求めます。その日、司祭はずっと聖書を読み続けました。そして、やっとひとつの聖書の言葉に行き当たったのです。「多くの民が失われるよりひとりの人が死ぬほうがよい」 という言葉が目にとまります。彼はこれこそ神からの答えと確信するのです。村人は司祭の言うままに、脱走した若い兵士を引き渡します。

その夜、天使がその司祭に現れて言います。
「お前さんは、一度でよいから、あの若い兵士のかくまわれたところへ行くべきだった。そうすればお前さんは別の答えを見いだしたはずだ」

天使は、信仰とは頭のなかで勝手に理屈をつけて納得するようなものではないと言っているのです。別の言葉で言えば、ほんものの信仰があるなら、たとえ行き詰まりと見える事態であろうと、逃げることなくその場に身を置き、事を直視せよということです。 信仰とはなによりも、その場に身を置く態度を教えるのです。なんとか理屈をつけて事態を収拾するというのは信仰ではないのです。逆に言えば、せっぱ詰まった事態に直面しても、逃げることなくそれに向かい合うなら、信仰の世界にすでに身を置いているのです。

*挿話はヘンリ・ヌーウェン著『傷ついた癒し人」(西垣二一、岸本和世訳、日本キリスト教団出版局)から抜粋