苦難は人生にプラスに働く


第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ローマの信徒への手紙5章3節)

【解 釈】
使徒パウロは、当時これが全世界だとされた地中海地方を駆け巡って、キリスト教を進展させた功労者である。その伝道旅行にあたっては、それこそ数え切れないほどの苦難に出会った。船が難破して海上を漂ったり、飢えに苦しんだり、反逆者として投獄されたりした。思いがけない災難は次々と彼に襲いかかったが、 苦難を乗り越えるたびに、苦難は人生にマイナスとなるのでなく、プラスになって働いていることを発見したのである。

なによりも苦難は耐えることを求めた。耐えるなかで試され、練られ、すべてに熟達するようになった。ついには暗闇のかなたに光を見いだすように、希望を手にすることができたのである。それは望んで手にした結果ではない。パウロはその結果を手にして、苦難に感謝する自分を見た。だからパウロは自然に「苦難をも誇りとします」と言うことができたのである。

だれだって、苦難などに出くわさないほうがよいに決まっている。けれども、 苦難は否応なく人生を襲う。と同時に、苦難はなによりも最初に耐えることを求める。耐える、それは苦難との戦いの時間を通り過ぎることである。しかし、それ以外に苦難に対処する方法を人間はもたない。時間はやがて、思いがけなく苦難を希望につなぐ。戦いの時間に耐えた人間のみが手にすることのできる結果である。苦難のとき、どのような形であれ「耐える」、それがなによりも先である。 それ以外に苦難に立ち向かう方法はない。

【こころ】
不登校の子どもをもったお母さんがおいででした。このお母さんはたいへんよくできた人で、カウンセリングを受けたり、あちらこちらのカウンセリング講座に出席したりして、子どもが学校に行かない心理や、親の対応などについてもたいへんよく勉強された人でした。あるとき、ひとりのカウンセラーから、
「あなたはとてもよくできたお母さんですね。きっと子どもさんは、その立派なお母さんぶりが苦手なのでしょう。これから少し悪いお母さんになったらどうでしょう。そのほうが子どもさんは伸び伸びしますよ」
と勧められたというのです。このお母さんは、
「先生、悪い母親になるにはどのようにしたらよいのでしょう。悪い母親のイメージをつくりたいので教えてください。これまで子どものために良いと思うことはどんなことでもしてきたつもりです。けれども、私は良い親にもなれないし、悪い親にもなれない。これからどうしたらよいでしょう」
と言います。
「お母さん、その言葉をそっくり子どもさんにおっしゃったらどうでしょう」
と私は言いました。

自分の真情を他人に伝えるには、これまでの努力にもまして、つらさを乗り越える勇気がいるものです。まして相手が自分の子どもであれば、なおさらのことです。でも、このお母さんは勇気を奮い起こして、涙ながらに自分がどんな親であろうとしているかを子どもに話されたそうです。その後、その子とお母さんとの関係が信頼関係に変わっていったことは言うまでもありません。努力に努力を重ね、さらに勇気をもって越えなければならないことがきっとあるでしょう。しかし、その勇気の後に喜びが控えていることも確かなことです。