どうでもよいと思われることでも


第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)

【解 釈】
イエスが十字架の死を迎えようとしてエルサレムに上られたときの出来事のなかで言われた言葉の一節である。過越の祭りのためエルサレムには外国人も大勢いたらしい。そのなかにギリシア人もいた。彼らはイエスを見かけ、ぜひお会いしたいという願いを弟子に託した。その願いに応えてギリシア人に語られた言葉の一節である。 一粒の麦をそのままにしておけば、いつまでたっても一粒のままである。しかし、畑に蒔けば豊かな実が与えられる。

一粒の麦とはイエス自身のことを指している。イエスは死んでこの地上から姿が見えなくなるが、その結果、多くの人に新しい命が与えられるという意味である。一粒の麦とは、ある意味で、目立たない、どうでもよい存在かもしれない。当時の華やかなギリシア・ローマの世界から来た人々の目で見れば、イエスなど世界の片隅にいるだけで、ちょうど一粒の麦のようなものである。しかし、そのどうでもよいと見えるイエスから豊かな命が与えられる。今の時代も同じである。私たちのなかにおいでになるイエスは、同じように目立たず、どうでもよい存在としておいでになるのではないだろうか。

世のなかは、どちらかといえば、目立つこと、華やかなことを求める。 一粒の麦はそれに比べると目立たない。しかし、どれほど大量の穀物も最初は一粒から始まる。言い換えれば、私たちが日ごろどうでもよいと思い、そのまま放っていることから、実は重大な実りが生じることを意味しているのである。その一粒の発見が、どれほど重要であるかがここに意味されている。

【こころ】
知的ハンディをもつ人たちが共同で生活する施設で働いているひとりのクリスチヤン・ソーシャルワーカーが、
「私たちのなかでは、遠回しにものを言うとか、思わせぶりとか、打算的なものの言い方では通じないんです。だから私はいつも純粋で、まっすぐにものを見ていないと、この人たちと一緒に生きていけないんです。この間も5時になったので帰ろうとしたら、帰っちゃいやというので、ずっとその人といました」
と言います。これは素晴らしい世界です。純粋さ、真っ正直、率直さが直接的に見える世界とでも言いましょうか。現代社会のなかでは、「いいことだけど、でもね。そんなことをしていては……」と片隅に追いやられた世界です。内心では人はその世界を求めているのですが、今の社会の仕組みのなかでは役に立たないとされているものです。現代社会は複雑かつ巧妙な仕組みが入り組んだ世界です。よほどうまく立ち回らないと世渡りはできません。この複雑かつ巧妙な仕組みに要領よく立ち向かうには、よほどの知恵が必要です。それに比べれば、このソーシャルワーカーのしたことは、それこそ大したことではないでしょう。「なんだ、そんなこと」と言いたくなることかもしれません。

しかし、この大したことでないそのなかに、今の時代が見失っているものが見えるとしたら、それは、やがて多くの実を結ぶことになる「一粒の麦」です。「隣人に対してひとりのキリストになる」という言葉を聞きます。キリストのなかにほんとうのもの、人が求めているものがあるということを知って、隣人に対してひとりのキリストとなるときは、今の社会のなかでは、「なんだ、そんなこと」と言われるようなことをしているときかもしれません。