あきらめなければ願い事はかなう
第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき
勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、 見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 (マタイによる福音書7章7節)
【解 釈】
人が勇気を失い、落ち込むときは、もうこれ以上先に進んでも仕方がない、お先真っ暗だとあきらめてしまうときである。あきらめるということは、自分に勝手に結論を出しているようなもので、まだ走れるのに途中でマラソンを棄権するようなものである。聖書のこの箇所を読むと、この言葉に続いて、パンを欲しがっている子どもに石が与えられることはないし、魚を欲しがるのに蛇が与えられることはないと書いてある。神は求める者にかならず良いものをくださる。人は何事かを願うとき、どうせだめだ、とはじめからあきらめて願っていることがある。きっとどこかで、虫のいい願いだと自分のわがままや身勝手さに気づいているからであろう。神が人の願いをかならず聞いてくださるとの確信の奥には、神が良いとされるものが与えられるという信頼がある。つまり、人間が勝手に商品棚から、「これをください」といって物を取り出すように願いが聞かれるとは言っていないのである。願いを聞いて、それを聞き届けてくださるのは神のほうである。だから、たとえ願ったとおりにならなくとも、その人にとっては、もっとも良いものが与えられるのである。
【こころ】
キリスト者詩人の八木重吉に「主の祈り」という詩があります。彼はその詩のなかでこう言います。
「祈りのたねは、天にまかれ
さかさまに生えて、地にいたりてしげり、
しげりしげりてよき実をむすび
またたねとなりて、天にかえりゆくなり」
祈りの種は天に蒔かれ、さかさまに生えて地上で実を結ぶとは、なんという素晴らしい発想でしょう。祈るときには、すでに結んだ実を手にしているというのです。祈りが聞かれるとは、まさしくこのようなことなのだと思い知らされます。
もし祈りが地上から天に至る道程をたどるとすれば、祈ったあと、その祈りはどうなるのでしょう。ちゃんと神さまのもとに届くのか、途中ではかなく消えてしまうのではないかと、心もとなく感じるかもしれません。地上に祈りの種を蒔いて、その芽がちゃんと生えるかどうかを気にしているようでは、祈りではなく願望のたぐいにすぎません。 祈りは、願望とはいささかちがいます。祈りはまちがいなく聞かれると聖書は言っているのです。まちがいなく聞かれるとは、すでに聞かれていると言ってよいほどのことで す。重吉はそれを知っていました。だから祈るときには、祈る者にもっとも必要な良き実りの結果がすでに手のなかにあると言っているのです。