どんなにつらくとも朝の来ない夜はない


第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い……。」(哀歌3章22、23節)

【解 釈】
紀元前6世紀、強大なバビロニアの侵略によってエルサレムの町は廃墟と化し、 人々は追い払われた。長い歴史をもつ国が減び、民族が四散するときの人々の気持ちはいったいどんなであろう。しかも、信仰を旗印に掲げて生きてきた人たちだけに、嘆きはことのほか大きかった。神は無力なのか。これから先どのようにして生きていけばよいのか。しかも飢えは迫り、雨露をしのぐ家すらない。町中が嘆きの声で満ちている。はたして今日一日を生き延びることができるかどうかさえも分からない。

にもかかわらず、朝が来ると不思議に生かされているのである。一日一日を生き延びている。一日は一日ごとに新しくされていくことを知った作者は、そこに深い神の憐れみを見た。神はけっして人々を捨て置かれない。それが神の真実であることを身をもって体験しているのである。見捨てられたかのようなときにも、 希望に通じるものがあることを信じる者の強さを感じさせる言葉である。

【こころ】
人の相談に乗っていると、つい問題の否定的な面を取り上げたくなります。たとえば、不登校の子どもがやって来ると、不登校はよくないことだと思ったり、無気力症の青年がやって来れば、このままだと勉強も進まないだろうし、仕事にもつけないだろうと思います。しかし人間のもつ問題は、かならずしも否定的な面だけではないのです。あるとき、ひとりの中学生が親御さんにつれられてやって来ました。
「この子は、学校なんか行かなくたっていい。学校に行かなくても立派な人は世のなかにたくさんいると言って聞かないんです」
と親御さんは言います。私はこの子に言いました。
「そうだね。学校に行かなくたって立派な人はたくさんいる。君はそのことをどうして知ったの」
「本を読んでです」
「えらいね。君は自分のことを自分で決める力をもっているんだね」
この子にとって学校に行かないことは、自分のことは自分で決められる証拠でもあるということです。

こんなこともありました。学校に行かなくなったら、お父さんとお母さんが仲良くなったと言うのです。私は思わずこの子を褒めました。
「君が学校に行っていると、そうはならなかったかもしれないね。君のおかげだね」

人間の世界には、事が起こってみないと分からないことがいっぱいあって、事が起こってはじめて、なるほどと思うことがあるのです。よく考えてみると、悪いことばかりが起こっているわけではありません。問題と思う出来事のひとつひとつに、思いがけない意味や価値が宝物のように隠されていることがあります。それこそが事の真実というものです。