自分を委ねれば、安んじて生きる
第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき
勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
【解 説】
紀元前6世紀の悲劇の出来事がこの言葉の背後にある。イスラエルの人々は国を失い、強制的にバビロンに囚われの身となって過ごさねばならない時期が長く続いた。これから先どうなるのか、故郷には帰ることができるのか、将来に思いを馳せれば、暗たんたるものが心を占めたのであった。もはや希望は自分たちにはない。もし希望があるとすれば、神以外他にないことを信じる信仰の告白がこの言葉となった。
人間は先行き不安になると、過去にとらわれてくよくよしたり、一時的なことで気を紛らわせようとしたりする。これから先のことを考えるとき、不安になるのは当然であって、不自然なことではない。将来のことに不安はつきものである。そういう意味では、不安から逃げることはできない。けれども、不安は克服されねばならない。それが、これからを生きる人間に与えられた課題である。
将来のことは、いくら考えても分からない。分からなければ、思い切って未来を預ける委ね先をもっていなければならない。それが「主に望みを置く」ということである。自分に望みを置くと不安になる。自分自身、どうなるか分からないからである。「主に望みを置く」とは、希望は神の手に預けて、私の手のなかには置かないということである。言い換えれば、私の手のなかには希望を握っていないが、私自身を委ねるものをもっているということである。委ねるものをもてば、これから先が不安であっても、生きることができる。委ねるものがなければ、不安だけが手許に残る。
【こころ】
不登校問題を扱っている心理相談の専門家が、「親が迷うと、子どもが迷う。親の生き方が定まっていると、子どもの心も安定する」と言います。生き方が定まっているとは、不平不満がなく、愚痴ひとつこぼすことなく、いつも活気に溢れていて、笑顔ばかりを見せているというのとはちがうのです。親といえども人間ですから、社会に出て仕事をしていれば、なんだかんだと不満もあるでしょう。母親の立場からは、父親にいろいろ注文をつけたくなることだってあるにちがいありません。愚痴や不満のない家庭を探そうとすれば、砂のなかにダイヤモンドを探すよりも難しいかもしれません。
少々の浮き沈みはだれにでもあることです。人生には、にっちもさつちもいかなくなって、どうにもならないといったことが往々にしてあるものです。そうしたときに、委ねるものをもっているかどうかが、先行きの見えない人生をどう生きるかの決め手になります。委ねるものをもっているなら、揺るぐことなくその生き方が定まります。委ねるものがなければ、ただ怖じまどうばかりです。
ある神学者は、「信仰とは、結局のところ究極の存在に自分を委ねることだ」と言います。究極の存在に自分を委ねるとは、「私」という存在に望みを置くのでなく、神に望みを置くことにほかなりません。その瞬間、迷う自分は消えています。もし生き方に迷いがあるなら、思い切って委ねることができる信仰の世界に飛び込んでみたらどうでしょうか。