拠り所をもつ者は強い
第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき
勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ず そこにいまして助けてくださる。 (詩編46編2節)
【解 釈】
「避けどころ」とは避難所のこと。「砦」とは城や要塞のことである。言葉がもつイメージからすると、一見後退するような印象を受けるが、この詩編は宗教改革者マルチン・ルターによる賛美歌「神はわがやぐら」(讃美歌267番)の原詩で、教会では勇気を奮い起こす力強い歌としてよく歌われる。神は究極の守り手であって、なにが起ころうと恐れることはないという信仰を歌っているのである。
おそらくこの詩編の作者は、さまざまな苦難に出会った経験があって、ときには苦難との戦いに敗れ、やむなく身を引くこともあったのであろう。けれども敗れ果てて、これ以上身を引くことができないというところにわが身を置くことがあっても、それから先はけっして敗北することはないと確信している。堅固な場所、身を守る砦があるからである。
勇気とは、かならずしも前に向かって進むばかりではない。戦いに敗れ、敗北を喫することが、ときには人生に起こることもあろう。しかし、最後の最後に拠り所をもっている者は強い。そこから先は、引き下がらずにすむからである。
【こころ】
宗教改革者ルターはこの詩編46編に基づいて有名な賛美歌「神はわがやぐら」を作詞作曲しましたが、このルターが「人が神以外のものに心を寄せるなら、それはすべて偶像礼拝である」と言っています。このルターの言葉は慎重に理解される必要があります。私たちには心を寄せるものがたくさんあります。ときにはそれは家族であったり、親しい友人であったりするでしょう。ときには美しい絵であったり、うっとりするような音楽の調べかもしれません。場合によっては生活のためのお金ということもあるでしょう。心を寄せるものがあってこそ、安んじて生きることができるというものです。
ルターが偶像という言葉を使うときには、被造物という意味をもっています。被造物はどんなに素晴らしくても、絶対ということがありません。人間の世界にあるものはなんであれ被造物だから、絶対ということがない、自分自身も含めて、すべては相対的であることを知りなさいということです。相対的であるとは、変わるということであり、そのときどきで意味や価値が変化するということです。相対的なものの性質が分かれば、その対極としての絶対的なものがどれほど大切かを知るはずです。それを知ることで、 ほんとうに心を寄せてよいものとそうでないものをわきまえる区別がつくようになるでしょう。
これを知れば、人生のなかでたとえ負け戦のような経験をしたとしても、最後のとりでに拠ることができ、これ以上引き下がることはあり得ないとの確信をもつことができるでしょう。