時間は日薬

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたも永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(ペトロの手紙一、5章10節)

【解 釈】
これは、使徒ペトロの名によって書かれた紀元一世紀の諸教会宛ての書簡の一節である。おそらく、そのころ初代教会を襲ったローマによる迫害がこの手紙の背景にある。しばらくは苦難のときであり、つらい時間を過ごさねばならないかもしれないが、この苦しみのときはけっして空しく過ぎる時間ではない。そのときの流れのなかで、結果として人は完全な者になり、強くなり、力をつけ、不動のものとされる。時間はそのためにある。人は迫害を受けながらも、なお時代の流れのなかで成長するのだと勇気づける。

しばらく続く迫害の時代は、いつ終わるのか人々に不安を抱かせたにちがいない。できることならこのような苦しみのときは、ただちに過ぎ去ってほしいと願ったことであろう。しかしその苦難のときは、人々のために必要な時間として流れているのだと教えているのである。「しばらくの間」という言葉は、ここでは重要な意味をもっている。

【こころ】
どんなことであれ、世のなかに起こる問題は、時間のなかで起こります。時間のなかで起こったことは、時間のなかでしか解決しないのです。しかし、問題を抱えた人にとって時間は、あたかも邪魔物のように思われます。時間がなければ、問題はすぐにでも解決に変わりそうだからです。でも幻想はやめましょう。時間は、問題と解決の間の夾雑物(きょうざつぶつ)ではありません。時間は現実です。つらいときの流れを耐えねばならないのです。

事態はなにも進展しないまま時間だけが流れていくような気持ちになるときがありましょう。このまま一年、二年と過ぎていけば、いつたいこの先どうなることやらと不安が募ります。あるいは一生このままで過ぎてしまうのだろうか、そう思うと暗たんたる気持ちになってしまいます。抱えた問題によっては、そのような思いに閉ざされることがありましょう。焦り、苛立ちに、居ても立ってもいられないようなこともありましょう。つらい時間の流れのなかでの辛抱強さが必要です。

この辛抱強さは、じっとなにもしないで待っているのとはちがいます。成熟した人間は時間を待つことができると言いますが、成熟した人間として、ときの流れのなかで、なにをなすべきかを教える祈りがあります。
「神よ 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」
世のなかに起こることは、変えることのできるものか、変えることのできないものか、ふたつのうちのどちらかです。起こったことがどちらなのかを見分けなければなりません。その上で、変えられるものは落ち着いて変え、変えられないものは勇気をもって受け入れる必要があります。それこそ真の問題解決です。このためには時間がどうしても必要なのです。なぜなら、時間のなかでこそ平静さと勇気と知恵は養われるからです。
時間のことを日薬というのは、その意味です。