どんな困難でもかならず解決する

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙一、 10章13節)

【解 釈】
紀元1世紀、使徒パウロはギリシアにあるコリントの教会に宛てて手紙を書いた。そのなかの一節である。コリントは当時、地中海貿易の拠点のひとつであり、商業都市として栄えていたが、同時に歓楽の町であり、性道徳は乱れ、近親相姦、同性愛なども行われていたようである。宗教的にも偶像礼拝が盛んであり、教会内部でさえも、人間関係の争いや分派活動など、パウロを悩ませる問題が山積していた。これらの問題を解決しようにも、なかなか思うように答えが見つからず、ただただ困り呆てるばかりであつた。

しかしながらパウロは、こうしたコリントの教会の問題をただたんに困った問題に終わらせず、神からの試練と考えることにしたのである。もし神からの試練と考えれば、それがどれほど大きな問題であれ、きっと及びもつかない新しい見方や解決策があるにちがいないと信じたのである。「神は真実な方です」という言葉には、たとえ解決の糸口がなかなか見つからないように見えても、ほんとうに必要な答えはかならず与えられるのだという確信が秘められている。パウロ自身、この確信に基づいて、さまざまな問題を解決してきた。

【こころ】
これは困ったと思うことが山ほどあるのがこの世の常。でも、この世のなかで起こるどんな問題も「よくあること」という一言に尽きるのも確かなことです。自分ではこれほど深刻なことはないと思っても、よくよく周囲を見回してみれば、あちらこちらで同じような問題を抱えた人が大勢いるのを見かけるからです。だから「よくあること」なのです。けれども私がそういう目に遭えば、これほどの困難に出会ったのは今の今までなかったことも確か。私と同じような目に遭っている人がほかにもいるかもしれないけれども、しかし今の私は世界中でだれよりも不幸な人間のように思われるのです。問題が深刻であればあるほど、そう思うでしょう。

しかし聖書は言います。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と。人間が抱える問題で、解決しないものはなにひとつないということです。

これはすごい言葉だと思います。問題を抱えて、どうにもならないときには、この言葉を口に出して言ってみてください。きっと不思議な勇気が湧いてくるにちがいありません。