事実をどう捕らえるかが大事

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネによる福音書9章3節)

【解 釈】
イエスと弟子たちがエルサレムの町を歩いていた。そこへ生まれつき目の見えない人がいた。弟子たちはイエスに尋ねて、「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか。本人が罪を犯したためですか。それとも親が罪を犯したからですか」と言う。当時の人々にとって、人の苦しみは、なにかの罪の報いであると考えられていたのである。こうした因果応報説による苦難の原因探しは、当時のユダヤ人の間に一般的な考えであったろう。しかし弟子たちは、その教えにどこか納得できないものを感じていたにちがいない。それがこのような質問になったと思われる。

イエスは、「神の業がこの人に現れるためである」と答えられた。人の苦しみは なにかの報いだとする考え方をイエスは否定したのである。生まれつき目が見え ないということは、その人にとって事実である。事実に良いも悪いもない。その 事実をどのように意味づけて生きるかが大切なのである。目が見えないという事 実に意味があることをイエスは教えているのである。

【こころ】
高校時代に病気をし、失明するに至った人がいます。高校生のとき、だんだん見えなくなる自分の目のことを考えると不安になり、教会に行ったそうです。ところがその教会では、彼の話を聞くと、すぐにこの聖書の言葉を引き合いに出してきたそうです。彼はそのときほど腹が立ったことはないと言います。人の気持ちを無視して、 聖書の言葉さえ持ち出せば、万事OKとする態度が許せなかったのです。

しかし、いったん彼の心を傷つけたこの言葉がふたたび彼を捕らえます。彼はその後、 教会生活を続け、受洗、そして牧師となる決心をしたのです。その決心をこんなふうに話してくれました。「信仰をもったからといって、急に人生がバラ色に変わるわけじゃない。心のどこかでは目が見えればいいのにという思いがあるのは確かだ。けれども私は、自分の目が見えないという事実を通して牧師という道を歩んでいる。これこそ神の業が私に現れていることなのだ」。素晴らしい生き方と思います。事実は事実です。動かすことはできません。しかし、それにどのような意味づけをするかによって、その事実は、たんなる不幸に終わるか、神の業となるかに分かれます。