安らかな死を迎えるために

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカによる福音書23章43節)

【解 釈】
イエスが十字架にかけられたとき、隣にふたりの犯罪人が一緒に十字架につけられたが、そのひとりの犯罪人にイエスが言われた言葉である。それには理由がある。ひとりの犯罪人は、イエスと一緒に十字架にかけられると、自暴自棄になって「お前が救い主ならわれわれと自分を救ってみよ」とののしる。それをもうひとりの犯罪人が 「この人はなにも悪いことはしていない」とたしなめ、イエスに向かって「天国で私を思い出してください」と言うのである。イエスは素直に自分の罪を認めたひとりの犯罪人に向かって 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのである。

このふたりの姿は、人間の死に方を表している。死は、問いだけが浮上する出来事である。そのかなたに、死んでも大丈夫だという答えを見せてはくれない。 死の向こう側はだれにとっても分からないのである。だから、なおのこと問いだけが残るのである。ふたりの犯罪人にとっても同じである。その死をどのように受けとめるかのモデルをふたりが対照的に表している。わけも分からずに他人や自分に当たり散らして自分の世界だけで死ぬか、やがて死ぬ自分の姿を正直に見つめて、今は答えがなくとも自分を委ねるもうひと つの世界を知って死ぬかである。この聖句は、教会では臨終の祈りに用いられる。

【こころ】
ひとりの女性の死を思い出します。彼女は、生まれつき障害があり、小さいときから病院の生活を余儀なくされていました。ときおり訪れる病室には、床から天井までぎっしりと、これまでに読んだ本が積んでありました。やがて病状が進み、自分
でも長くは生きられないと思ったのでしょう。ある日、私にこう言いました。 「先生、私はなんのために生きたのでしょうね」

そのとき、彼女は二十歳を少し過ぎたばかりでした。青春の真っ盛り、同世代の女の子はきっと恋をしたり、将来を夢見たりするころです。私はこの問いに答える言葉を見つけることができませんでした。
「イエスさまはいてくださるよね」
と言うのが精いっぱいでした。

その後、病床で聖餐式をしました。「これはキリストの体、これはキリストの血」との配餐の言葉と共に、パンとぶどう酒をいただく彼女の姿を見ながら、彼女の問いをそのままキリストが受け取ってくださる出来事がここにあると思わざるを得ませんでした。

それからほぼ一月後、彼女はこの世を去りました。静かなおだやかな死が彼女の死でした。彼女の枕辺でやすらかな死に顔を見ながら、葬儀の礼拝式文に従い 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と祈ったとき、取り巻くすべての者が悲しみながらも、人の死の向こう側にあるものが確かな手応えとして伝わってくる経験をしたのでした。