真実は沈黙のなかにある

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。(詩編62編6節)

【解 釈】
日常のなかで言葉を使わずに生きることは難しい。けれども、人間の世界のなかにある偽りは、言葉のなかに現れる。巧みに飾られ、巧妙に仕掛けられた言葉の罠に、人はどれほど踊らされてきたことであろう。こちらが踊らされたばかりではない。ときには報復のため、言葉の武器をもってこちらから相手に立ち向かうことすらまれではない。人間相互の不信や裏切りは言葉から生まれる。

この詩編の作者は、言葉がもつ「嘘」の世界をいやというほど見てきたにちがいない。だから言葉がない世界に自分の身を置いたのだ。あらためて言葉のない沈黙の世界に自分を打ち沈めてみるとき、真実は沈黙のなかにこそあるということを発見したのである。人にとって、もっとも正直であって偽ることなく、また誠実であって信頼を損ねることがあってはならない神との関係は、言葉でなく沈黙のなかにあることを教えているのである。もし言葉がそこに顔を出せば、もはや神との関係は透明さを失う。

あらためて日常生活のなかでは、影の存在である沈黙の役割に目を向けさせる聖書の言葉である。

【こころ】
身に覚えのない噂に怒りを覚えたり、ときにはいわれのない非難や攻撃を受け、悲しい思いをすることが日常のなかに少なくありません。それらはすべて言葉の世界で起こる出来事です。人と人の関係は言葉を媒介にしてできあがっていますから、どのような言葉が使われるかによっては、それこそ生き死にに関係することすら起こり得ます。

しかし人は、言葉を選ぶのにひどく無関心であったり、乱暴に使ったりします。まして意図的に真実を歪めるために言葉を使うことだつてあります。「嘘」とか「不誠実」とか「裏切り」に出会って、言葉に不信を抱いた人も少なくないはずです。そういう経験がたび重なると、人の言葉をそのまま受け取らず、ついついその裏にあるものを探ろうとします。そんな自分の姿に、言葉を信頼することのできない悲しみを感じることだってあります。

言葉には嘘があることを知れば知るほど、沈黙の世界に思いを馳せてしまいます。沈黙には「嘘」や「偽り」が入り込む余地がありません。沈黙は常に真実を表明します。人がほんとうに生きるためには、真実が求められます。そのとき、沈黙が言葉よりも優先します。黙して祈るとき、その真実をひしひしと感じるのではないでしょうか。