生きていること自体が奇跡

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

誰が烏のために餌を置いてやるのか。その雛が神に向かって鳴き、 食べ物を求めて迷い出るとき。( ヨブ記38章41節)

【解 釈】
ヨブ記の主人公ヨブは、心清く信仰心の篤い立派な人物であった。ところが突然、一切の財産を失うという災難に遭う。しかしヨブは「奪うのも、取るのも神さまだ」と告白する。そのヨブにさらに追い打ちをかけるように体中にできものができて無惨な姿を呈するようになる。ヨブの妻は彼に向かって「神を呪って、死んだ方がましじゃないですか」となじる。それにたいしてヨブは、「お前までとんでもないことを言う。人間は神から幸福をいただくのだから、不幸だっていただくことがあるんだ」と言うのである。

しかしヨブのほんとうの苦しみはここから始まる。ヨブはなまじ神を信じているために、死のうと思っても死ぬこともかなわず、苦しみながらも生き続けなければならない。信仰による生き方と現実の苦しみの狭間で、もだえつつほんとうの答えを探そうとする。これがヨブ記のモチーフである。 このヨブがついに発見した答えは、「烏の子だって、養われているじゃないか」 ということだった。「なんだ、そんなことか」と一笑に付してしまうなら、ヨブの答えを見失うであろう。ヨブは、人がほとんど見逃してしまうほどの世界の片隅に、創造主の深い愛がそっと置かれていることに目が開かれたのである。

【こころ】
神さまがいるのだったら、どうしてこんなことが起こるのかと思うようなことが世のなかには起こります。朝、元気で会社へ出かけたのに、降って湧いたような災難に遭うなどということがあるでしょう。世のなかには、「なぜ」と言わざるを得ないような出来事が次々と起こります。いっそのこと「神さまなんかいない」と思えば、 あきらめがつくかもしれません。でも、起こった出来事が「どうして」「なぜ」と納得できなければできないほど、神さまはいったいなにをしているのかと怒りがこみ上げてくるのを抑えることができません。

ヨブはまさしくそうでした。熱心に神さまを信じていただけに、納得のいかないまま、 ますます神不信が募ります。神を恨み、人を恨み、自分を恨むのです。命があることさえ恨みの的です。このヨブに一大転機を与えたのは、「烏の子も養われている」という自然のなかの小さな出来事でした。その自然の片隅で起こっている出来事に、「なぜ」 も含め、何事も愛に包む大いなるものの意志を見て、ヨブは、苦悩しつつも生きていること自体、実はその愛のなかでの出来事にほかならないと知ったのです。