願いごとは聞かれるか

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。(ヨハネの手紙一 5章14節)

【解 釈】
なんとかならないものかと問題の解決を願うことは珍しいことでない。ヨハネは、教会にもさまざまな願いをもつ者がいることを知っていた。いったい人の願いを神は聞いてくださるのか、この問いは当然人々のなかに生じる思いである。

ヨハネはこの問いに、信仰の本質からそれることなく答えようとしているのである。根底に流れる主張は、祈りは聞かれるのだとの確信である。ただし祈りが聞かれるときは、ただ神の御心にかなうときであると彼は言う。人の願いがそのままかなうときであれ、あるいは願いどおりにならないときであれ、そこに神の御心を見なさいとヨハネは言っているのである。結果でなく、神の御心の働きを先立たせる信仰がある。

【こころ】
私がまだ若いころ、日本福音ルーテル東京教会で副牧師として働いていたときのことです。主任牧師は本田伝喜という方でした。高齢になり、目が不自由なので、私がお供をして教会員のお宅をよく訪問しましたが、しばしば病人を訪ねることがありました。先生は見舞ったあと、帰り際にきまって大きな声でお祈りをするのが習慣になっていました。病気が癒されるように、病人が希望をもって病と闘えるようにと祈ったあと、先生はかならず「神よ、御心のままになさってください」とつけ加えられるのでした。

 医学的にもはや癒される見込みのない重篤の病人の場合であっても、見舞いに行けばつい「早く元気になってくださいね」と言いたくなるのが人情というものです。まして、それほどでもない病気の人に向かって「御心のままに」と言うのは、「ひょっとするとお前さんの病気は治らないかもしれないよ」という意味にも受け取られかねません。

私はあるとき、先生に、「先生はよく御心のままにとお祈りできますね」と言いますと、「それでいいんです」との答えが返ってきました。

一見ぶっきらぼうに思えるこの返事は、私に大切なことを教えてくれました。病人にとっては病気が治るか治らないかは願いがかなうかどうかの重大な岐路です。しかし「それでいいんです」とは、その結果がどちらであろうと、それは祈りが聞かれた結果であるとする信仰がそこにあるということです。しかも結果を見て、そこに神の御心が働いたというより、結果を見る前に、神の御心の働きを信じる信仰があるということです。