泥まみれの「足」こそ真理を伝える

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。( ローマの信徒への手紙10章15節)

【解 釈】
イエスの使徒であったパウロによってローマの信徒に宛てて書かれた手紙のなかの一節にある言葉である。ローマは当時、地中海世界の中心であり、パウロはなんとかして、その地にキリストを伝えたいと願ったのである。もともとは旧約聖書のなかのイザヤ書52章7節からの引用であるが、紀元前八世紀の預言者イザヤは、メシアの救いを告げる者は、山々を駆け巡って、喜びの知らせを告げると言う。

パウロはこれを、現在の自分自身の伝道の旅に当てはめたのである。考えてみれば、彼は各地を駆け巡ってキリストを宣べ伝えてきた。イザヤが讃える伝道者の姿は、またパウロ自身の姿にほかならない。 彼の伝道の旅は、口から出る言葉での説教の旅ではない。彼は自分のことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と人が評判していると書いている(コリントの信徒への手紙二、10・10)。そこから見ると、どうもパウロは口下手であったと思われる。だから彼は伝道するにあたって、言葉より体を使って動き回ったのであろう。体を使って伝道をする労苦と成果をもっともよく知っているのは、歩き回りを引き受けた足である。泥にまみれ、疲れを引き受ける足を見て、パウロはおそらく、口よりも足こそが人に福音の真理を伝えたのだと思ったのであろう。だから足が美しいと言ったのである 。

【こころ】
ある牧師は、説教はそれほど上手ではありませんでしたが、よく信徒を訪問する人でした。礼拝を二回続けて欠席すると、かならず安否を尋ねて訪問するので、 信徒はなるべく礼拝を欠かさないようにつとめ、結果としては大きな教会ができあがったのでした。日の説教より、訪間の足のほうがものを言ったのです。すでにその牧師は世を去りましたが、信徒は今でもそのときの訪間をよく覚えていて、その牧師のことを尊敬しています。けっしてよく手入れがされているとは思えないその牧師のよれよれの靴を見るたび、それこそ「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とのパウロの言葉がぴったり当てはまると思ったものでした。

足はもっとも汚れるところです。また真っ先に疲れを感じるところでもあります。重荷を背負い、靴のなかでむれて臭気を発していることだってあります。足を見るということは、自分のつらさや嫌なところを見ることでもあって、気持ちが重たくなることで もあるのです。あまり他人には見せたくない、人の本音の部分を足は引き受けていると 言ってもよいでしょう。

しかし、俗に人は口跡を残すとは言わず、足跡を残すと言います。事を処すのにもっとも気のすすまない部分がじつは重大な役目を果たすということを、はからずも足跡という言葉に発見します。その足をパウロは美しいと言います。口下手の彼がキリストについての良い知らせを告げるために使った足、その足がパウロの苦労をもつともよく知っていました。良い知らせはそれ自体美しいのですが、告げる者の本音を引き受けている足がその美しさを運びます。パウロはその美しさを足に見たのです。