敗者がいるから勝者がいる

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑……。 申命記6章11節

【解釈】
旧約聖書に登場するイスラエルの民は、族長ヤコプの時代に飢饉に襲われ、紀元前1700年ごろエジプトに移住したが、前1290年、エジプト第19王朝ラメセスニ世の時代には過酷な奴隷の生活は極限に達した。このときモーセがエジプトから解放する指導者として現れ、イスラエルの民をかつて出てきた故郷パレスチナに連れ戻すのである。このあたりの事情については旧約の出エジプト記に詳しく書かれている。

モーセはイスラエルの民を率いて荒れ野の旅を40年送るが、彼自身は約束の地カナンにはいることなく、ヨシュアがモーセのあとを引く継ぐことになる。モ―セは、約束の地パレスチナを目のあたりにして出エジプト以来の荒れ野の旅をふりかえり、民たちに新しい地で守るべき信仰と生活についての教えを説いた。 この言葉はその教えの一節である。

人々がエジプトに400年いた間に、彼らがかつて住んでいたところはすでに他民族の土地となっていた。彼らが戻ってそこに住もうとすれば、相手と戦って土地を奪い返す以外にはなかった。しかしながら、戦いを挑んで勝ち取ったにせよ、 その土地は、自らの力による勝利の結果ではないことを知れとモーセは教えているのである。戦いの勝利の結果のなかに、実は敵の恩恵にあずかっていることがあるのだと教える。

【こころ】
人はだれしも人のなかに生まれ落ちます。人のなかとは社会のことであり、 社会とうまく適合できるかできないかは、その後の生き方に大きな影響を与えることになります。

しかし今日の時代、社会にうまく適合して生きるためには、そのための知識や技術を習得するための高度かつ大きな努力のエネルギーを必要とします。そのエネルギーは、他者との競争という戦いを生み出します。この戦いに勝つための訓練が幼少時から始まります。よい成績、よい学校、よい就職口を得たとは、それが競争の戦いに勝利した結果です。人はこの結果を手にしたとき、自分に喝采を送るでしょう。この社会で生きるということは、そのためにのみエネルギーを消費することであるかのような感じさえ受けてしまいます。

しかし聖書の世界は、そこに隠されたもうひとつのちがった世界があることを教えています。イスラエルの民が約束の地にはいり、土地を獲得する戦いは原理において競争と同じです。勝って相手を倒さねば、土地という結果を手にすることはできないのです。 その戦いの勝敗を決するのは自己の努力や才覚と言って差し支えないでしょう。だから 土地を得た後は、勝ちを得た自分に拍手喝采を送るのを当然と考えます。

にもかかわらず、申命記はそれをよしとしないのです。勝利して得た土地は、負けた相手がすでに豊かに準備しておいてくれた土地だというのです。

もしこれを今日の社会の競争の世界に当てはめれば、こういうふうに言えるのではないでしょうか。受験戦争に勝ち、希望の大学に合格した者は、不合格の者がいるおかげで合格したのであり、めでたく部長、課長に昇進した者は、部長、課長にならなかった者がいるので昇進したということになります。人生に勝利した者は、このやさしさをもつべきでしょう。今日の社会に欠けているのは、このやさしさです。人はこの社会で生きるとき、ほんとうはこのやさしさを心の底では求めているのではありませんか。ただ 競争に勝った者だけが讃えられる社会であってはならないと願っていないでしょうか。

競争に勝つとは、負ける者の存在があってはじめて成り立つ原理です。勝利を得た者が謙遜に勝利を受けとめる配慮があれば、この世はもっと住みよくなるにちがいありません。そんな甘いことをとうそぶく者にこそ、このやさしさの原理は必要です。そしてこのやさしさをもつ者こそ、真の勝利者といえるでしょう。