「いる」だけでよい

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとある。人は、呪われたり、滅びたりするために、この世に生きているわけではない。人の存在は肯定的に受けとめられているのである。「人を祝福するとき」とは、人の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう。人を祝福するとは、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている。

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。創世記1章31節

【解釈】
聖書がここで用いた「造る」という言葉は、神が創造するとき以外には使われない言葉である。この言葉には、造ったらそれでおしまいというのでなくて、造ったものを維持し、管理し、完成に導くという意味もある。つまり、造られて存在するということは、ただたんに「ある」という以上のことを意味する。「ある」ということが次第に形をとり、成長し、やがて完成に至る道筋までも含めて、創造の業なのだということを聖書の創造物語は教えるのである。創世記1〜2章を読めば、創造は混とんとした状態に始まり、終わりには「よし」とされていく生成の過程であることがよく理解できるであろう。すべては最初から完成された存在として造られたのではない。神の創造は、未完成から、その終わりは「極めて良かった」とされる完成へのプロセスである。存在そのものが「よし」とされて完成する。

 

【こころ】
人がもっとも安心するのは「あなたがそこにいるだけでよい」という言葉を聞くときであると言われます。しかし現代の社会生活は「そこにいるだけでよい」とは言ってくれません。「そこにいるだけ」は社会の評価基準からすれば怠け者、無力なる者、人生の敗残者でしかないからです。しかし社会が怠け者と烙印を押すメッセージが、人にとってはもっとも安心感を与えるとはまことに皮肉なことです。

「そこにいるだけでよい」という言葉を怠け者へのレッテルとしてではなく、安心感を得るためのもっとも重要な言葉として用いようとするなら、聖書の創造論に触れる必要があります。

創世記によれば「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と言われたとあります。英語ではIt was very good.と表現されます。goodとは美しいという意味もあり、ここで意味されていることは、存在するものはすべて美しいということです。存在そのものが肯定されているのです。

マタイ福音書6章26節には「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」とあります。また野の花は「働かず、紡がず」とあります。にもかかわらず神は空の鳥を養い、野の花を美しく装ってくださいます。「蒔かず、刈らず、倉に納めず、働かず、紡がず」とは、いわばなにもしないということです。現代社会では怠け者といわれることに通じる言葉です。にもかかわらず神はその存在そのものを受け入れておいでになるのです。何事かをして役立つことで評価を得る生活とはまったく異なる評価基準がここにあります。

私たちを取り巻く世界は、学校でも、家庭でも、何事かをすることを促す言葉で溢れています。「頑張れ」「勉強しなさい」「努力しなさい」がそうです。人はこれらの言葉を毎日のようにあきるほど聞かされます。世のなかや自分に役に立つためにそうしなさいと言うのです。もし「いるだけでよい」と言おうものなら、「とんでもない。それは怠け者の言うことだ。そんなことで世のなかは渡っていけない」とたちどころに反論されるのが落ちでしょう。にもかかわらず「そこにいるだけでよい」という言葉が人に安心感を与えるというのはとても大切なことです。その言葉を回にするには、「見よ、それは極めて良かった」という聖書の言葉を思い起こす必要があるでしょう。その言葉を聞きたいと願っている人たちが、この社会には大勢います。

賀来周一著<a href=”https://amzn.to/3i1MbAl” target=”_blank” rel=”noopener”>『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)</a>より