聖書における人の創造① よいものとして

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」
創世記1章31節

聖書がここで用いた「造る」という言葉は神が創造するとき以外には使われない言葉です。この言葉には、造ったらそれでおしまいというのでなくて、造ったものを維持し、管理し、完成に導くという意味もあります。それは、存在するということは、ただたんに「ある」という以上のことを意味します。「ある」ということが次第に形をとり、成長し、やがて完成に至る道筋までも含めて、創造の業なのだということを聖書の創造物語は教えているのです。創世記1~2章を読めば、神の創造のわざは混とんとした状態から始まり、終わりには「よし」とされていく生成の過程であることがよく理解できます。すべては最初から完成された存在として造られたのではないのです。神の創造は、未完成の状態から、その終わりは「極めてよかった」とされる完成へのプロセスなのです。人が存在すること(いること)も、こうして「よし」とされて完成するのです。