バッハと初めての楽譜

月明かりの写譜

この兄の許でのできごと。われらのバッハはあるとき兄が秘蔵していた楽譜の束を発見した。見ているうちに、これはどうしても筆写してやがて自分もしっかり学び、弾きこなせるようになり、こうした曲も自分で作曲できるようになりたいとの思いが募ったのだろう。なにせ兄秘蔵の楽譜である。そこで彼は夜中に兄秘蔵の棚からこれを取り出すと、もちろん明かりを点けることもせず、窓際の月明かりでこれを書き写し始めたのだった。それはまたただ書き写すだけでなく、書き写しながらの学びでもあった。バッハがこうして北ドイツの音楽家たちの作品を学び、聴き、自らもその影響を受けて作曲し始める最初の契機となったのかもしれない。しかしこの写譜は結局間もなく完結というあたりで、兄の気付くところとなり、当然のことながらその逆鱗に触れ、書き写したものもみな取り上げられてしまうという結果に終わった。少年バッハにとっては苦い経験でもあり、挫折だったかもしれないが、音楽、特にオルガン音楽に対して専門的に初めて自覚して目を開かれる機会となったのではなかろうか。晩年のバッハは白内障に罹り、結局その手術が原因で死に至ることになるのだが、この月明かりの下での写譜もそのひとつの原因だったのではないかとすら言われている。音楽家の修業は文字どおり体を張ってのものだった時代なのである。
これが原因となったのだろうか。15歳になったバッハは兄の元を離れ、自立した学びの時期を始める。ほど遠からぬニーダーザクセン(ここもルーテル教会の地方である)のリューネブルクに赴き、聖歌隊員となって、給費生の資格でその地のギムナジウムの生徒となった。