バッハと世俗音楽

ライプツィヒ第2期(1730-1735年)

 バッハの教会音楽に対する市参事会や聖職者会議の無理解は次第に教会音楽からバッハを離れさせることになった。市参事会とは世の常のとおり、教会音楽のために割かれる出費をめぐってのものだったが、聖職者会議とはそのかちかちのル派正統主義の立場と、先に掲げたH.ミュラーの、改革的ルター派正統主義の立場に同調して、これから学び、それを教会音楽に表現しようとするバッハとの確執だった。こうしてバッハはこの頃依頼さ市民によるコレギウム・ジクムの指揮者に就任して、この時期世俗音楽の分野に精を出した。教会音楽ではもっぱらそれまで作曲したものの再演や、他の作曲家の作品を演奏することが多かったようだ。バッハは他への就職の可能性も探ったようだが、既に50歳に及ぶ彼は当時としてはもうカテゴリー入るからだろう、結果を得ることはできなかった。辛うじてドレスデンの宮廷作曲家の称号を得ることができただけだった。そうした状況でバッハは、これまで考えてきた「教会音楽とはなにか」から、広く「音楽とはなにか」を再び考えようになったらしい。その一端には最終回で触れることにしておこう。

 しかしこうした状況の中でもバッハが傑作と言われている「目覚めよ、との声が我らを呼ぶ」(KK140)1731年?、「我らの神は堅い砦」(KK801735年に残していることもまた事実である。後者についてはそれがライプツィヒで初演された宗教改革記念日の礼拝全体が復元されている。かつて私はその復元礼拝への協力を依頼されてドイツ語とラテン語の典礼文と祈りを含めて司式と説教をしたことがある。私の付した条件は現在祈ることのできない祈祷文は省くということと、説教は朗読された福音書に基づいて日本語で、現代の会衆のために語るということだった。