ヨハネ受難曲とマタイ受難曲

ヨハネ受難曲(1724年)とマタイ受難曲(1727年)

ライプツィヒでは聖金曜日夕にトマス教会とニコライ教会において隔年で「受難曲」が演奏されることになっていた。会衆はこれを聴き終えると、主イエスの受難を偲んで静かに教会を後にしたのだった。この地に赴任して最初となる1724年の聖金曜日のためにバッハは思いを込めて「ヨハネ受難曲」を作曲し、ニコライ教会で演奏した。ヨハネ福音書の受難物語を軸に、当時流行し始めた(福音書抜きで)自由詩による「ブロッケス受難曲」からのいくつかの歌詞やその他の自由詩によって作曲したものだった。しかしこれは受難曲らしくないと市参事会などから批判を受け、翌年再演の時にはかなり手を加えたものが演奏されたが、生涯に何度か改作された末に、最終版は初版に近く、これはこれで「勝利者キリスト」を説くヨハネ福音書にふさわしいものと、私は好んで聴いている。バッハは1727年には「マタイ受難曲」を作曲したが、この受難曲の自由詩は、当時名を知られたルーテル教会説教者H.ミュラーの『受難節説教集』に基づいて作詞されたものと最近の研究は明らかにしている。それに従えば、その時代の受難説教を反映して、第49曲のアリア「愛ゆえにわが救い主は死のうとなさる」が中心となっていると結論されている。この受難曲は器楽も合唱も2部に分かれる必要があるので、教会の構造上、ニコライ教会での演奏には向かず、トマス教会だけで演奏されたのだった。

上述の「ブロッケス受難曲」など聖書の引用のない自由詩のみによる受難曲がヘンデルやテレマンなどによってもはや教会ではなく、市民ホールなどで演奏され始めていた時代、バッハはここでもルーテル教会の音楽家に徹しようとしていたことになる。