バッハのライプツィヒ時代

ライプツィヒ第1期(1723年-1730年)

バッハの正式の任務はライプツィヒの音楽監督で、トマス教会とニコライ教会のほかに、市内の他の二つの教会の礼拝音楽にも責任をもたねばならなかった。そのためにトマス学校生徒を4グループに分け、日曜毎に4教会に送り出したわけだが、その中でも一番優れた聖歌隊を自ら指揮して、トマス教会とニコライ教会で隔週毎にカンタータを演奏したのである。そのほか結婚式や葬儀があればその際の音楽も彼が責任を負わねばならなかった。この第1期にはほとんど毎週新しいカンタータを演奏したから、作曲、生徒たちによるパート譜の書写、練習、そして礼拝での演奏という流れが毎週続いたと考えただけでも大変な作業だったことだろうと察せられる。

この最初の時期のカンタータには、ルター以来16、7世紀に名曲を生んだ会衆讃美歌(コラール)を中心にした、いわゆる「コラール・カンタータ」を連続して作曲している。コラールのみを歌詞とするもの、コラールに聖句や自由詩を加えたものなどいろいろあるが、そこに見えてくるバッハの努力はコラールを単に音楽的に合唱として展開させるというだけでなく、主日毎に決まっている聖書日課を十分に検討し、これを黙想して、いわば「音楽による説教」の趣きを与えるものが多い。バッハの死後に遺されたその神学蔵書を見ると、「ルーテル教会の音楽家」、「聖書の音楽家」としてのバッハの聖書解釈の努力の跡がはっきりと伺われる。定められた聖書日課、主礼拝でその福音書日課に基づいて行われる牧師の説教、2部形式の場合は説教の前後に、1部形式の場合は説教後に歌われるカンタータが重なり合って、会衆の心にその日の福音のメッセージを深く刻み付けたことになる。