コリントの信徒への手紙一 15章53節-58節
感謝から始まる一日はなんだか素敵な日になりそうなのに、
いつも毎日のようには感謝することができない自分でもあります。
ため息で始まる日があったり、不安で始まる日、
いろいろな日があっても私たち一人一人、
命が与えられているからこそ迎える目覚めです。
あなたは誰をひいきするわけでもなく、一人一人に同じように命を与え、
愛を与えてこのときの中を生かして下さいます。
あなたに少しでも多く心を向けて感謝できる私たちにして下さい。
これから語られますみ言葉、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
おはようございます。
今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所において
「主に結ばれているのならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなたは知っているはずです。」15:58
と語られています。
そんなこと知らないよ、と思われる方もおられるかもしれませんが「主に結ばれていないものなんて。」とは語られておりません。
なぜなら、全ての一人一人が主に結ばれているからです。だから「あなたがたとえ知らないとしても、全ての一人一人は主に結ばれているので、全ての一人一人の苦労が決して無駄にならないのだ。」と語られているのです。
よく私たちは「私の事なんて誰も解ってくれないわ」とか、「こんな苦労をして何になるのかしら」なんて思うときがあります。
なんかそのような時は孤独を感じたり、まるで自分が悲劇のヒロインになってしまったのではないかそんな思いをしたりします。
しかし、そんなあなたでもあなたは主に結ばれています。誰もが解ってくれなくても一人耐えていると思う時があっても、あなたは主に結ばれているから、あなたの苦労は決して無駄にはなりません。
「朽ちるものと朽ちないもの」とは、成長や変化をしないものは、私たちが見えたり触ったりするものの中であるでしょうか?
私たち人間も生まれれば成長します。そしていつかは死を迎えます。
その死は成長や変化するものにとっては、まるで同じように「終わってしまうこと」であるかのように思いますが、それももう「終わってしまう事」ではありません。
なぜなら、イエスキリストが「死」を「終わる事」ではなく、私たちが一般的には見えなくても「新しい命へ」とつなげて下さったからです。
自分で負ってきた苦労も、一人一人が恐れている「死」も、主に結ばれている全ての一人一人には恐れることではないことであると、今朝、与えられたみ言葉は私たちに語っています。