第十二課 希望をもって

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旧約聖書1502頁、新約聖書480頁。合計2000頁に及ぶ膨大な聖書は、「以上すべてを証する方が言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」という言葉で終わっています(ヨハネ黙示録22:20)。

再び、イエスさまが来られる、とはいつ起こるのでしょうか。それは、終わりの時、神さまの救いのご計画が完成する時を意味しています。その時、「新しい天と地が現れ、神さまが自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる日」です。そこには「死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21:3以下)のです。

そこで、巡礼の旅を続ける神さまの民は、天の祝宴に与るのです。その時を目指して、信仰者は確かな足取りで日々を歩むのです。

しかし、ひるがえって、信仰者の日々の生活はどのようなものでしょうか。罪の赦(ゆる)しと、永遠の命を約束された者として喜びのうちに歩み始めた一人一人ですが、決して、一足飛びに聖人になれるわけはありません。相変わらず、利己的であり、妬み、怒りを抑えることが出来ない生活を続けています。進歩のない自分自身に落胆することもあります。罪の力は強いのです。しかし、その時、人々の耳に、「あなたの罪は赦された」というイエスさまのみ言葉が響いて来るのです。このみ声に励まされて再び力が与えられるのです。「信仰者も倒れる。しかし、倒れたままではない。必ず立ち上がる。」という言葉の通りです。

ルターは、このような信仰者の姿を、「キリスト者は、事実においては罪人であるが、希望において義人である」とも言っています。つまり、まだ病人ですが、医者から、「もうあなたの病いは峠を越した。あとは回復を待つだけだ。」とはっきりと回復を約束された病人である」というのです。

あるいは、信仰者は「罪赦された罪人」とも言いました。確かに、まだ罪人ですが、「罪赦された罪人」であって、単なる罪人ではないと言うのです。パウロは、「だから、私たちは落胆しません。たとえ、わたしたちの「外なる人」衰えて行くとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされています。」と語ります(コリント二4:16)。人間の努力でなく、信じる者のうちに働く聖霊(神さまの力)が働いて、人を日々新たにして行くのです。

この神さまからの働きかけを信じて、日々心を新たにして、「主イエスよ、来てください。」と祈りつつ、新しい天と地を望みみつつ、与えられた人生を喜びと感謝と希望のうちに歩み続けたいものです。

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