第十一課 いのちの意味

image_pdfPDFに変換するimage_printプリントする

聖書は、神さまが人を創造され、命の息を吹き入れて「生きる者」とされたと記しています(創世記2:7)。命は神さまが与えて下さった賜物なのです。ですから、私たちが「生きて人生を歩んでいる」ということ自体、神さまの恵みの賜物なのです。

ところが、聖書によると、この何よりも大きな「命」という賜物を、人間自身が台無しにしてしまったというのです。つまり、神さまの命令に背いて一人の人間が罪を犯した結果、死がすべての人に及んだのです。つまり、アダムの堕罪によって、死がこの世界に入り込んで来たのです。(ローマ5:12以下)。また、「罪が支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とも述べています。聖書では罪と死は一体なのです。

それにしても、死は私たちの存在を脅かす恐ろしいものです。「最後の敵」(コリント一15:26)と言ってよいでしょう。私たちは、いつもどこかで、死の恐怖を感じながら生きています。どんなに裕福になって財産を積み上げようとも、死によってすべてが無に帰するのですから(ルカ12:20)。

しかも、確かに、私たち人間は、生まれた時から死に向かって生きていることを知っているのです。死は例外なく、すべての人に訪れます。このように、私たちは罪と死に囚われて生きているのです。

しかし、「わたしは、復活であり、命である。」(ヨハネ11:25)と宣言されたイエス・キリストは、復活によって罪と死に勝利されました。更に、「わたしを信じる者は死んでも生きる。」と永遠の命を与えると約束をして下さったのです。復活のイエスさまが、私たちを罪と死の法則から解放し(ローマ8:2)、新しい命に生きる者として下さったのです。このことを信じた時、パウロは、「死は勝利に呑み込まれてしまった。死よ、お前のとげはどこにあるのだ。」(コリント一15:54以下)と力強く、罪と死に対する勝利の宣言をしました。

復活の主イエス・キリストを信じて生きる者は、「こちら側から死を見つめて生きる」のでなく、「終わりの時、救いの完成の時から生を見つめて生きる者」です。言い換えれば、永遠の光の下で自分の人生を生きるのです。その時、死は決して終わりの時でなく、永遠の世界への通過点にすぎません。私たちは、永遠の御国へ向かう巡礼の旅を続ける旅人なのです。目標が明確なので、死の影におびえつつではなく、右にも曲がらず、左にもよろめかず、確かな足取りで人生を歩み続けることが出来るのです。

関連記事