第五課 復活は希望の知らせ

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パウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。」(コリント一15章3-5節)。
「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と書いたパウロですが、「最も大切なことは、そのキリストが三日目に復活したことだと言うのです。そのためにこそ、「十字架につけられたキリスト」に心を集中するのだと言うのです。
少し、順序立てて考えてみましょう。
イエスさまが、十字架上で息を引き取られたのを見た時、イエスさまによって何か新しいことが起こると期待していた人々は、すっかり落胆してしまいました。「今度こそは、今までと違う。イエスさまこそ、この世界を愛と希望で満たして下さる方だ、と期待していたのに、やはり世界は元のままに戻ってしまった。期待していたわたしたちが間違っていた。」という絶望に落ち込んでしまったのです。見捨てられた思いであったでしょう。「結局、この世界の最後の支配者は罪と死なのだ。」という絶望です。
しかし、神さまは、この世界を罪と死の中に置き去りになさいませんでした。イエス・キリストを三日目に復活させ、罪と死に対する勝利を宣言なさったのです。パウロは、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるもの、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から,わたしたちを引き離すことはできなのです。」と高らかに復活のキリストの勝利をうたっています(ローマ8:38以下)。
私たちの理性は、死人の復活を信じることは出来ません。しかし、確かにキリスト教会2000年の歴史を通して、キリスト信者は、「今も、キリスト・イエスはわたしたちと共にいて、私たちを愛し、支え導いて下さる。」と信じて、パウロのように喜びつつ希望のうちに生きてきたのです。わたしたちも大胆に、この群れに連なる者となっていきたいものです。

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