天国とは~ここも天国~

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祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
暑さを感じたり風を感じたり、日差しや雨を感じたり、
私たちはたくさんの目には見えないけれど、確かなものの中に生きています。
目に見える大切なものだけではなく、目には見えない大切なものへ心を向けるという
「時」を持つ事もできるように、これからの一瞬一瞬を神様あなたがお支え下さい。

これから語られますみ言葉、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マタイによる福音書13章31〜33節】

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(31〜32節)

イエス様はご自分の話を聞きたいと集まって来た人々に、「天の国」についてそこにいる人々にわかりやすいたとえで話されます。今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、丁度そのような箇所です。

とは言っても、「からし種ってどういうものだろうか」とか、お金を払えばすぐおいしいパンが買えてしまうような今、パン種のたとえなんか、聖書を読んでいる私たちには決してわかりやすいたとえではありません。何千年もの昔の外国でのたとえ話です。私たちにわからなくて当然なのでしょうか。そうではありません。

何千年もの昔の外国でのたとえ話を、神の言(ことば)として今ここに集まっている一人一人に「天の国」についてわかりやすく話されるイエス様の言葉を取り次ぐために牧師は用いられています。たとえば、小さな種と言うより朝顔の種と言ったほうがわかりやすい、というように「天の国」は私たちのとても身近にあることがわかります。そして人が名前をつけるほどに大切に思い、種なら畑へ、パン種なら粉の中へと人が取って蒔いたり入れなければ始まりません。このように「天の国」は一人一人を包むように傍(かたわら)にあります。それに目を留め、大切にし、あとは成長する力を信じて待つ、ほかの言葉を使えば神様に委ねることなのです。

「天の国」と聞くと、なんだか用意されている幸せな国へ自分が行けるのかなと思うかもしれませんが、私たちが生きているここが、神様も働かれている信じて待つことのできる、平和に包まれている世界なのです。私たちは自分の力や知力だけで生きているのではなく、神様に命を与えられて生かされていることを思い起こし、自分を包んでいる天の国の中を歩みたいと思います。

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