オルガニスト、バッハ

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アルンシュタットのオルガニスト

17歳でリューネブルクのギムナジウムを卒業したバッハはすぐにザクセン-ワイマールの宮廷楽師となったが、やがて18歳になるとその地方のアルンシュタットのルーテル教会での試演の後、就任辞令を受けて、そのオルガニストに就任した。今この町に行くと、教会前の町の広場には最近作のバッハの銅像がある。わたしたちの見慣れた、堂々たる晩年のバッハ像と異なる、体を反らして奔放にオルガンを弾く若いバッハの銅像である。教会当局はカンタータの作曲や演奏も要求したが、聖歌隊の能力からして不可能だった。そればかりかその聖歌隊の同年代の少年とバッハは暴力沙汰まで起こして聖職者会議の審問を受けることにもなった。

その直後バッハは4週間の許可をもらって北ドイツのリューベックに出掛けた。リューベックもルーテル教会の地域、その聖マリア教会の教会音楽家、オルガニストだった著名なブクステフーデの音楽に接し、学ぶためだった。そのオルガン演奏もさることながら、待降節の「夕べの音楽」を聴き、これに魅了された。若さの至りか、彼は無断でリューベック滞在を延ばして、ブクステフーデの音楽から学び続けたのだった。その成果はあったろう。しかし4ヶ月後にアルンシュタットに戻ったバッハはまたしても聖職者会議の厳しい叱責を受けることとなったのは言うまでもない。そのうえ聖職者会議からは、バッハの賛美歌伴奏が複雑過ぎるとか、オルガン演奏が短過ぎるという厳重注意までもらったという。17歳から22歳までの青年バッハの姿だった。

 

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