詩編47編1節-10節
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
虫の声が元気に聞こえたり、寂しそうに聞こえたり。
私たちは今、自分が感じたり、することは
実は自分の心の状態を映していることがたくさんあります。
自分で自分がわからない時や、わかりたくもない時、
生きていればいろんな時が私たちにはあることを
神様、あなたはご存知で、
そのままの私を受け入れて下さいます。
いつも素の私を受け入れて下さりありがとうございます。
神様、あなたに受け入れていただいている自分を愛せますように。
これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
おはようございます。
皆さん「喜び」を表現して下さい、と言われたらどうしますか?
笑う人もいれば、踊る人もいるかもしれませんが、
大声で叫ぶ人も泣く人もおられるかもしれません。
今朝、ご一緒にお読み致しました詩編47編の詩は、
「すべての民よ手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」
という詩から始まっています。
なんだか「飲め飲め、今日はめでたい。」と、
どこかの俳優がドラマで言っているような台詞と同じような気がします。
「お酒が飲めなかったらどうするのよ。」とか
「歌えない人は喜べないの?」というような問題ではありません。
はじめに皆さんにお聞きしたように、表現の仕方は人の数だけあって
どんな表現の仕方であろうと「喜んでいる」のです。
先日、友人からこのような質問を受けました。
「早奈さんには『こだわり』ってある?」という質問です。
私の中でも、昔持っていた『こだわり』と、
最近持っている『こだわり』が変わったように、
私と彼女の『こだわり』は違うのではないかと思うと気軽には答えられなくなりました。
「喜び」の表現の仕方はたくさんあります。
人によって違っていてもいいことです。誰かと比べて批判することでもありません。
ただ「喜び」であることには変わりません。
神様への感謝の喜びの表現の仕方も、一人一人違っていいのではないでしょうか。
あなたが心を込めて表現するのであれば。
神様はあの喜び方ならいい、これはだめだなんて比べて受け取ったりされません。
一つ一つの「喜び」を同じように受け止めて下さいます。