私に自分から歩みよって下さるかた

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ルカ24:36-43
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
「当たり前のことは一つもない、今生きていることを大切にしたい。」
東日本大震災の後、テレビの映像で映された仙台の学校で
卒業生が言った言葉が心に残ります。
私たちは今ここに生きています。
命を与えられてかけがえのない今を生かされています。
そのことを思える時、ありがとうが心から溢れます。
これからもあなたに与えられるかけがえのない一瞬一瞬を、
感謝して過ごせますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

 

『こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。』ルカ24:36

 

おはようございます。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においては、
復活のイエス様に出会った弟子たちの話を聞いて
不思議に感じていた弟子たちの真ん中に復活のイエス様が立ち、
「あなたがたに平和があるように」と語られ、
復活された体を証明されるために食事をされるという場面が語られております。

「イエス様は十字架上で息を引き取られてお墓に葬られたはずだから、
今、自分の目の前におられるはずはない。」
と誰もが思って驚いたことでしょう。
しかし、イエス様は生前「私は三日の後に蘇る」とおっしゃっていました。
誰もそんなこと本気にしていなかったのでしょう。
でも、イエス様は「自分は言ったのに、それを忘れてしまうような薄情な人は、もう知らない!」
と怒られるのではなく、
弟子たちが分かる方法で、分かりやすくゆっくりとご自分の存在をお示しになります。

私たちも常識とか、物の順番とか、
価値観にとらわれて大切なことを見失ったり、
後回しにしてしまったりすることが多いような気がします。
時には無駄な時間に感じる時に、意外なものに大切なことを教えられたり、
それら一つ一つは、イエス様が一人一人の分かりやすい方法で分かるようにと
私たち一人一人に歩み寄って下さっておられるのではないか、そんな気がします。

私が座っている席からきれいな桜の木が見えます。
花が咲いたのを見て「あ、この木、桜の木だったのか」と驚いたり、
新緑が茂って「桜の木は春だけじゃないんだな」と秋の紅葉を見て思ったりしていました。
今年のことです。
この礼拝を行っている部屋の窓から見えるあの桜の木のてっぺんは、
いつも私が自分の席からみているあの桜の木なんだということに初めて気づき驚きました。
見る見える、信じる信じられる、など、
多くのことが自分の常識や関心で見えなくなったり、
信じられなくなったり、いろいろあるということを感じさせられました。
しかし、イエス様はそのような一人一人にも静かに、歩み寄り、
一人一人にふさわしい方法でご自分の存在をお示しになります。

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