私たちはだれのもの  

マタイ9:35-38
35.イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36.また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37.そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38.だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
この新しい目覚めも、今日出合う一つ一つのことも、
神様あなたに与えられるかけがえのない「今」というときです。
私たちは感謝してもしきれないくらい、神様あなたからたくさんのものを与えられています。
「ありがとう」と感謝できるときばかりではありません。
当たり前だと当然のように思ったり、なんでこうなのと恨んだり、
私たちの反応が様々であったとしても、
神様は私たち一人一人に惜しみなく愛を注いでくださいます。
そのようなあなたからの愛の中を歩めることを感謝致します。

これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

『だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」』マタイ9:38

 

おはようございます。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所 マタイ9:35-38において、イエス様が語られておられる言葉は
「働き手が少ないから神様に催促をしようよ」と言われているようにもとれて、
随分イエス様も強引な方だったんだなぁ、という印象を持ちました。
しかし、その前の箇所にある「飼い主のいない羊のような」というみ言から聴いて、
「あ、神様に心を向けながら話す人(働き手)が少ない」という意味なのかな、と思ったときに、
私はイエス様は決して強引な方ではないんだと安心しました。

神様がうっかり者で私たちが催促しなければ何かを与えて下さらない、という意味ではなくて、
神様が全ての人に与えて下さっている恵みが、誰からきているのかを私たち人間が知らないだけだから、
もっと神様に心を向ける人が増えますようにと祈ろう、とイエス様は言われているだけなのです。

教会賛美歌474番の二番の歌詞に「失望するな、父の神は無知のものをも、助けられる」とあります。
これはいったい誰からくる恵みなのだろうかと、たとえわたしたちが分からなくても、
神様は今もあなたに恵みを与えて下さいます。