一人ではないから大丈夫

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詩編41:2-14
1 :【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2: いかに幸いなことでしょう弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき主はその人を逃れさせてくださいます。 3 :主よ、その人を守って命を得させこの地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。 4 :主よ、その人が病の床にあるとき、支え力を失って伏すとき、立ち直らせてください。5: わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」 6: 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」7: 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。 8: わたしを憎む者は皆、集まってささやきわたしに災いを謀っています。9: 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」 10: わたしの信頼していた仲間わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにします。 11: 主よ、どうかわたしを憐れみ再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば彼らを見返すことができます。12: そしてわたしは知るでしょうわたしはあなたの御旨にかなうのだと敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。3: どうか、無垢なわたしを支えとこしえに、御前に立たせてください。 14: 主をたたえよ、イスラエルの神を世々とこしえに。アーメン、アーメン。
 

祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。

もらってばかり?じゃ何か返さないと。私たちはそのような習慣に捕われることが多いような気がします。神様から与えられる恵みは私たちには数えきれません。しかも一人一人に丁寧に必要なものを必要な時、その人に必要なだけ十分に与えられます。私たちに何ができるのでしょう。神様は「ありがとう」と一人一人の心が神様へと向けられることを待たれています。無理矢理、神様の思う通りに一人一人の心を操るのではなく、ただ待っておられます。信じて待つ強さを私たち一人一人も思い起こすことができますように。これから語られますみ言、この語る者を通して今、聖霊のお導きによって、聖書から聴くお一人お一人と皆さんの心に在るお一人お一人へ、神様あなたがお語り下さい。この語る者の全てを神様あなたにお委ねいたします。このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してみ前にお捧げ致します。アーメン。

『いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき主はその人を逃れさせてくださいます。』詩編41:2

 おはようございます。『いかに幸いなことでしょう 弱い者に思いやりのある人は。』詩編41:2と詩人は詩い出します。「弱いもの?」ほら、やっぱり神様は弱い人の味方なんだね、と思ってがっかりするのは私だけでしょうか?

 聖書で語られている『弱いもの』とは今「弱い人」と社会的に思われている経済的に恵まれていないとされている人や力が弱い人など、「特別な状況にある人」のことだけではないのではないでしょうか。詩人が詩う『弱いもの』とは私たち全ての一人一人が持つ「弱さ」のことのようにも思えます。

 「弱さ」が自分にあるなんて認めたくありません。ましてや「苦しみ」や「悲しみ」が今、自分に襲ってるなんて周りの人に悟られたくない時もあります。でもそのような時、思っていませんか?「誰も私のことなんてわかってくれない。」って。でも神様はわかって下さいます。あなたと一緒に悲しみ、あなたと一緒に苦しんで下さいます。「情けないなぁ神様のくせに」と思われたとしても。情けなくても弱く見えたとしても、全ての一人一人であるあなたと共にいるのが大切だと選んで下さるのが神様です。

 『いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき主はその人を逃れさせてくださいます。』詩編41:2

 災いから逃れさせて下さるから神様がいらっしゃって幸せだというだけではありません。災いの時も自分が弱く苦しいと思える時も共にいて自分と共に弱さや苦しみに向き合って下さるのが神様です。

   「あなたは決して一人ではない。どんな時も私が共にいる。」

と神様は言われます。

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