わたしを思い出して

マルコ14:22-26

14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
  

 

 

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
自然の命が輝いています。
「今年はいつもよりあの花の開花が早いね」とか
「いつもより寒い日が多いね」と
私たちは自分が生きてきた記憶の中で
いろいろなことを比べたり評価したりします。
その時は誰が基準になっているのでしょうか?
自分の知っている価値観や自分の知っている常識。
全ての中心は自分だ、と思う時、
自分に限りがある存在であることを忘れているのかもしれません。
そのような、ちっぽけでくだらない存在の私にも、
そしてたとえ、大きくて重要に思える存在に感じられる私にも、
分けへだてなく神様は私たち一人一人に命を与えられて大切にして下さることを、
いつも感謝することができますように。

これから語られますみ言、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

 

『一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。』マルコ14:26

 

おはようございます。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、「最後の晩餐」と題されていて、
有名な画家の絵の題材にされたりした箇所でもあります。
聖書に書かれている通り、イエス様がいよいよ十字架に掛けられようと、
捕えられる前に最後に行った弟子たちとの夕食の場面です。
これは、今も行われている聖餐式の初まりでもあります。
よくこのような思いをされた方のお話を聞きます。
「なんか聖餐式のある礼拝だと、急に洗礼を受けたか受けてないかが聞かれて嫌なのよね。
神様のことを聞きに来てるだけなのに、なんか差別されてるみたいで嫌なのよね。」
というような言葉です。
すごく納得できるし私も何でだろう?って、ずっと思ってました。

ある時です。「昔、イエス様の時代やキリシタン迫害の頃は、聖餐を受けることは命がけだったんだよ。」と話を聞きました。
イエス様からの愛はすべての一人一人に、分け隔てなく与えられています。
それは変わることはありません。
しかし、それを受け取る私たちは、信仰を公に告白してきた責任があります。
キリスト教が迫害されていない現在の日本で、
聖餐式を受けられない方が、差別されているように感じるということは、
教会へ来ることさえも命がけだった時代があったからなのかもしれません。
受け取る私たちは時代の流れや社会の考え方で変わることがあっても、
神様から差し出される愛は決して変わることはありません。

決して変わることがない神様からの愛を受けて、生かされていきましょう。